市川白弦、「禅と共産主義」

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市川白弦 (1955年頃、暫定). 「禅と共産主義」 [Zen and Communism]. (English translation here.)


Contents

1. Text
    1.1 Section I
    1.2 Section II
    1.3 Section III
    1.4 Section IV
2. Source Note
3. How to Cite this Text

Text


一

あたえられた題目はあまり大きいので、そのなかの一部面について私見をのべてみたい。本誌(「大乗禅」)二月号に伊藤康安教授が「禅門七弊論」をよせておられるが、まことに適切な流弊の指摘であり、われわれ禅仏教徒にとって有益な反省の資料である。

今日は自己弁護の時節でなくて自己批判の時節であり、自己刷新の時節である。自己弁護と自己批判とどちらが真実に自己に忠実であるかを反省すべき時節である。禅と共産主義の問題にしてもそうである。もしも禅者が共産主義の欠点を列挙し、禅はそのような社会革命の行動とは面目を異にすると主張するだけであるならば、おそらく共産主義者は問いただすであろう、「それならばあなたがたの現状はそれでよいのか、脚もとを見られよ」と。われわれはいかなるかたちにおいても暴力をみとめないと禅者がいうならば、共産主義者は再び問い返すであろう、「剣禅一如とはどういうことであるのか」と。


二

教団の人々は共産主義を何とかして克服したいと望むが、共産主義克服の方法はいたって簡単である。それはほかでもない、共産主義者が指摘するような教団の欠陥、社会の矛盾を無くすることである。そうすれば共産主義がはびころうとしてもその余地がないわけである。このことに気がつかないで、共産主義思想克服の方法いかになどとまるで問題にならないことを問題として苦しむのは正気の沙汰ではない。

禅者が共産主義撲滅のために苦心することも、自由があってのことであればそれもよいであろう、しかしそこで問題になるのは、この禅者がそれとおなじ熱意をもって資本主義的反動思想の撲滅のためにも戦っているかどうかということである。禅者の批判の鋒先は共産主義と資本主義とどちらに向けられているのか、これをとくと自己反省してみることである。もしも禅者の現実に対処する道が「中道」であるならば、資本主義社会体制にたいしても同じ熱意をもってこれを批判しこれを克服すべく努めなくてはならぬはずである。

三

あるいはまた「よろずそらごとたわごと」であり「世間虚仮」であるとするならば、そのような脱俗的達観を普及するために、はたして自分は共産主義者に匹敵する熱意を傾けているかどうか、ということを反省してみる必要がある。そして失業、貧困、頽廃、自殺が日々倍加し、一国の文教が植民地化しつつあるとき、人民大衆に向かってこのような脱俗的無関心を鼓吹することが、真に健全な態度であるかどうかを反省してみる必要がある。社会のこと、政治のことに無関心になるということは、反動政治がのさばるがままに


しておくということであり、「無関心」とか「超越」とかいうかたちにおいて反動政治に協力しこの上もなく政治の世界へ深入りすることにほかならない、ということを反省してみる必要がある。

四

さて、マルクシズムのひとつの欠陥はマルクスが通ってきたフォイエルバッハの人間観を抽象的なものとしてまったくすててしまったことである。マルクシズムの理論と実践につきまとう硬直性、硬化性のひとつの原因がここにある。硬直した人間観、すなわち根源的な「人間性」をすべて抽象物として排除し、人間はブルジョアかプロレタリアかどちらかであるといった考えかた――もちろんこのような人間把握が全面的にまちがっているというのではない――この硬直的な人間観のゆえに一方ではこれが全体主義的なるものへの危険をはらみ、他方では社会の上層および中間層の良心的分子を納得させるに足るヒューマニズムの論理に欠けるところが生ずるのである。

筆者は「自性清浄心」の体系が階級的人間観にも社会変革の論理にもその正常な位置をあたえることができると考えるものであるが、これについては他日を期したい。筆者はもちろんメガホンをもって街頭に出るところにのみ禅があるなどと主張しているのではなく、またさようなことを実行しているのでもない。禅宗ははたしてこれまでのままでよいのか。何とかしなければならぬとすれば、具体的にどうしたらよいのか。それを究めたいのである。それを知っておられる方があれば教えていただきたいのである。筆者も自己弁護の道ならばいくらでも心得ているつもりである。

Source Note

「禅と共産主義」 (Zen to kyōsanshugi [Zen and Communism]) is a short essay by Ichikawa Hakugen 市川白弦 (1902–1986). Ichikawa challenges Buddhist institutions to confront social contradictions identified by communists, criticizes political indifference masquerading as religious transcendence, and suggests that the Buddhist doctrine of intrinsically pure mind (jishō shōjōshin 自性清浄心) may help correct limitations of Marxist conceptions of humanity.

This transcription is based on Ichikawa Hakugen, 「禅と共産主義」, in 『市川白弦著作集』 (Ichikawa Hakugen chosakushū [Collected Writings of Ichikawa Hakugen]), vol. 2, 『禅と現代思想』 (Zen to gendai shisō [Zen and Contemporary Thought]) (Kyoto: Hōzōkan, 1993), pp. 273–275.

The essay's original publication date and venue remain unverified. The provisional date of approximately 1955 is a contextual estimate, not a bibliographically established date. Its opening paragraph refers to a February issue of 『大乗禅』 (Daijō Zen), but the precise relationship requires verification. Page markers refer to the 1993 collected edition. The transcription was prepared from scans of that edition; remaining textual uncertainties, if identified, will be corrected in subsequent editorial review.

How to Cite this Text

Ichikawa Hakugen (ca. 1955 [provisional]). “Zen to kyōsanshugi” 禅と共産主義 [Zen and Communism]. In Ichikawa Hakugen chosakushū, vol. 2, Zen to gendai shisō, 273–275. Kyoto: Hōzōkan, 1993. Transcribed and edited by James Mark Shields. The Radical Buddhism Project. Version of 8 October 2026. https://radicalbuddhism.net/wiki/IH55ZC.