妹尾義郎、〈反宗教運動批判〉
|
⚠ Awaiting Textual Verification ⚠ This digital transcription of the original text is complete but requires verification against the primary print edition or manuscript scans. |
Seno'o Girō (妹尾義郎) (1931). 〈反宗教運動批判〉 “A Critique of the Anti-Religious Movement”. 『新興佛教の旗の下に』, August 1931. Reprinted in 稲垣真美編『妹尾義郎宗教論集』 (Tokyo: 大蔵出版, 1975), 302–315.
Page 302
反宗教運動批判
一
反宗教運動に対する批判は、二つの方面から之を考察してゆくべきであらう。即ち、其の一面は現在の既成宗教団そのものに対する彼等の実践的否定運動と、今一つは宗教そのものを否定せんとする理論的方面との二つに対してである。
先づ既成宗教団排撃の方面から批判して行く。既成宗教団排撃については、吾人は何等の異議をさし挟むものではない。恐らく、少しく真面目な宗教者のだれもが、程度の相違こそあれ、其の点、同感の意を表せざるを得ないであらうほど左様に、既成宗教団は、どれもこれもが、宗教本来の生命を喪失した残骸的存在であって、之の排撃こそ正しき宗教発展の動機をもたらすものであることが十二分に知られるからである。既成宗教団の現形態は、有名なレーニンの批評に尽きる。彼は云ふ、
「宗教は、他人のための永久的労働によって困苦と孤独とによって抑圧されてゐる人民大衆を至る所で重圧してゐる精神的の圧迫の一種である。搾取者に対する闘争に於ける被搾取階級の無力が不可避的に来世におけるより善き生活への信仰を呼びおこす。これは、丁度、自然との闘争における野蛮人の無力が諸神、悪魔、奇蹟其他のものを呼びおこすのと同じである。宗教は、一生涯、働いて苦しみ抜く人間に対しては、地上における屈従と忍耐を教へ、天国の報ひの希望を以て慰める。だが宗教は、他人の労働によって生活する人間に対しては、搾取者たる彼等の全存在を安々と是認し、天国の祝福の入場切符を相当の値段で売渡し、かうして彼等を地上での幸福を教へてゐる。宗教は民衆のための阿片である。宗教は資本の奴隷がその人為的……
Page 303
……容貌や、最少限の人為的生存慾を溺死させてしまふ一種の精神的毒酒である」
と。最早珍らしくもない「阿片」だが、しかし、何と穿った批評ではないか。この評言の対象は主としてキリスト教であらうが、もとより、吾が既成佛教団もその例外ではありえない。今更高津正道氏の「搾取に耽る人々」や「反宗教闘争の旗の下に」の中の、西田繁氏の「本願寺の階級性」等々を読むまでもなく、真言宗も日蓮宗も禅宗等々も、現在その寺院組織が広大で繁昌してをればをるほど、その阿片性や搾取性は莫大であって、全くレーニンの、酷評そっくりであることは否めぬ眼前の事実である。かかる限りに於ては、反宗教運動の既成宗教団排撃に関して何等の反対の理由もありえぬことであらう。
しかしながら、既成教団のかかる現状と宗教そのものと果して必然的関係を有するものであらうか。たとへば、佛教イデオロギーは必ず現既成宗教のごとき醜悪なる状態を結果すべきイデオロギーであるだらうか? 若し、さうであるならば反宗教運動は完全に肯定されるべきであるが、果してさうであらうか?
否!! それぞれの宗教のもつ真の本領は、反って現既成宗教団のごとき醜悪極まる生活形態を完全に否定し浄化すべき筈のものでこそあれ、断じて、之等を許容すべきものではない。
それは、高等なる宗教は倫理的宗教だと呼ばれることによっても知られるやうに、佛教にせよキリスト教にせよ、その属性に多分の倫理性を具有してをるかぎり、そして、その機能が歪曲されない限りに於て、既成宗団の現状のごときは到底認容されざる罪悪的存在でなければならぬ。従って、かかる残骸的宗団の排撃のごときは、反宗教運動者の躍起をまつまでもなく、真剣な進歩的宗教者の手によってすでに提起されてをらねばならぬ筈のものではなかったらうか。例へば、遅れながらも、今度吾等新興佛教徒がその運動の第二綱領に
「我等は、全既成宗団は佛教精神を冒瀆したる残骸的存在なりと認め、之れを排撃して佛教の新時代的闡揚を期す」
と掲げたのも、実にかかる認識からに外ならない。
二
と云へば、反宗教運動者達は言下に反駁するであら……
Page 304
う、「さうした本領とか本質とかこね廻すのがブルヂョアー的形式論理だ、眼前に展開しつつある歴史以外にどこに本質があるか」と。だが、その点、彼等も省みて直ちに自己の非を悟らねばならぬであらうことは、現在流行せる幾多の無産運動――社民、大衆、共産等々、あらゆる無産運動を目して真正なるマルキシズム運動だとして批評することを彼等はそのまま許容するであらうか。また反宗教運動についても高津氏の「日本反宗教連盟」と秋田氏らの「反宗教闘争同盟」といづれが真のマルキシズムの本流なのか? それらの批判清算は当然眼前の存在形態以上にその基準を、マルクス・エンゲルスや或はレーニンの教学に本質的に求めねばならぬであらうことを思はば、佛教或はキリスト教の本質と既成教団との関係に於ても同様の考察が許されねばならないであらう。簇出するダラ幹や、はしゃいだマルクスボーイや、原稿稼ぎのマルクス・インテリーなどの渦く濁流を以て偉大なるマルキシズムを否定することは誤診の大なるものと云はねばなるまい。だからこそ、現既成宗教団を以て、宗教そのものを否定してかかることも亦誤診であらねばならないのだ。
試みに思へ、キリストの生活のいづこに現教会に見るが如きブルジョアー的生活があったらうか。彼こそ当時ローマの虐政より被圧迫民族ユダヤを救出せんとした先覚者ではなかったのか。彼の友としたものはすべてが無産者であって断じて富貴者ではなかった。もとより、そのイデオロギーは現代的に清算されねばならぬものが多々あるであらう。けれどもキリスト教そのものは、いきなり労農者圧迫のイデオロギーではない。神を愛し隣人を愛せよの隣愛解放運動のごときばキット無産者解放運動の魁であるであらう。ずっと下って、リンカーンの神の名による奴隷解放運動のごときも、キリスト教が必ずしも阿片や毒酒ではない活証文と見ねばならぬ。
眼を転じて吾が佛教について見よう。王族をのがれて街頭に乞食生活をはじめられたわが佛陀の生活が、搾取のサの字もない大平等の典型的生活であったことはあまりにも能く知られた事実である。街頭に説かれる無我主義、従って、かの四姓の階級打破運動など、たとへ、それが積極的・政治的に行はれなかったとしても、どうして現在のごとき複雑極まる階級的寺院組織や、資本主義……
Page 305
的現寺院佛教と同視することができようか? 四十五年一貫して説かれた縁起観・空観から――それは「物質的なものと精神的なものとの真の統一体――考へられた創造された統一体ではなく――現存する統一体」即ちフォイエルバッハの「感性」にも等しき純粋体験の無我主義からどうして現在のごとき観念的、阿片的佛教が肯定される必然性が見出せるか? 佛教は再吟味されねばウソだ。下って日蓮聖人の生活を見よ、時の支配者北条氏といかに一生を戦ひつづけられたか。決して「彼等の全存在を安々と是認し、天国の祝福の入場切符を相当の値段で売渡し」たり、或は「地上における屈従忍耐を」教へられもしなかった。実に世界歴史中比類のない対支配者とのその闘争的宗教運動は、現在のごとき国家主義的日蓮主義や、馬鹿げきったドメドマ法華式日蓮宗とは似もつかぬ宗教運動であったのだ。更にこれを近くは宗教者ガンヂーの反英独立運動について見ても亦さうであるやうに、宗教は常に民衆をして「安心立命の暗室」に眠りこませるものでは断じてなかった。吾人はこの外、宗教の名によって示された、具体的であり、進歩的であり、積極的であり、革命的でもある幾多の事実をもってをる限り既成宗教団そのものと宗教そのものとは――佛教にせよキリスト教にせよ――考察を別個にしうるものであり、せねばならぬものであると主張するに何の不合理もないと考へる。
かくして、吾人は反宗教運動の既成宗教団排撃を肯定しつつ、進んで反宗教運動のもつ宗教否定の理論の批判にうつらねばならぬ。
三
反宗教運動者マルクス主義者は宗教をどう規定してをるか? 彼等はその機関誌「反宗教闘争」の創刊号に、
「超自然的な世界の存在の信仰が宗教と名づけられるわけだ。これが宗教の最も基本的な特徴である」
といってをる。言葉を足して説明すれば、キリスト教のいふ超自然的な天国や、その世界の超人間的なゴッドに対する、ありもせぬ「幻想」を信仰するのが宗教だといふのである。エンゲルスが、フォイエルバッハ論中に、
「宗教が神なしに存在し得るものとすれば、錬金術も……
Page 306
賢者の石なしに存立し得よう」といった、問題の「神」はマルクス主義宗教論の根本的対象であることを忘れてはならない。そしてその基礎哲学は勿論唯心論であるから、唯心論の正反対である唯物論に立脚するマルクス主義が、かうした超自然的な神の実在を肯定できないのは言ふまでもないことである。
では、かかる宗教は――神の信仰は一体どうして発生したか? レーニンは言ふ「恐怖が神を創造した」と。ゴルテルは「不可解の力」だと。いづれにせよ、無知蒙昧であった太古の人間が、その生活に襲ひかかる「不可解」にして不可抗的な自然現象に対して懐く恐怖の観念が、それらの現象を神の仕業と思うたことから始まる、といふのだ。かくして、原始的万有神――アニミズムが発生し、進んで、氏族や民族宗教となり、遂に一世界宗教としてのキリスト教の神は、このやうにして生じたのである。佛教もまた、これと同様の一種の世界宗教である」といふのである。アニミズムに就いては、ブレハノフは、
「自然現象を説明せんとする野蛮人の試みである。この試みがいかに貧弱であっても、これは原始人の生活条件にあっては不可避なものである」
といってをる。民族宗教の起源に就いては、ボグダーノフは
「種族の長老は生産に於ける集積された経験の守護者として組織し、管理し、命令し、労働計画を立て活動的創造的原理を表象するが、一方その他のものは聴従し、命令を甘受し、上から示された計画に服し、他人の意志に従って行動するのである。この生産関係は万有の考察、就中、人間自身を考察する模型となった」
といってをる。だから、エンゲルスはその「反デューリング論」に、
「一切の宗教は人間の日常生活を支配する外部的な力が人間の頭脳に幻想的に反映せるものに過ぎない。さうしてその反映に於ては、地上の力が天上の力といふ姿をとる。歴史の初期に於ては先づ第一に自然の力がかかる反映をなし、それが諸民族の間に一層発展して極めて種々なる人格を生んだのである。……しかし間もなく、その自然力と並んで社会上の力が作用し始める。この社会力もやはり人間にとっては外部的のものであり、しかも始めはやはり説明すべからざるものとして人間に対立し、且つ自然そのものと二見同じ自然必然性を以て人間を支配するのである。これによって始めは唯神秘不可思議なる自然力のみを反映せる幻想の姿が社会的属性を獲得し歴史的力の代表者となってくるのである」
と説明してをる。レーニンはゴルキーへの書簡の中に神について、こんなに批評してをる。
Page 307
「神とは(歴史的にもまた実際的にも)何よりも先づ、人間の魯鈍な被圧迫性と外界の自然と階級抑圧とを通じて生み出された諸々の観念――この被圧迫性を強固にし階級闘争をごまかし去らうとする所の諸々の観念――の複合体なのだ」
と。つまり宗教は、マルクスが「ヘーゲル法律哲学批判」の中に、
「反宗教的批判の基礎は、即ち人間が宗教を作るのであって、宗教が人間を作るのではないことになる。而して、確かに宗教は人間が自分自身まだかちえてゐないか、或は既に得て再び失ひ果てた場合の自己意識と自己感情とである」
といふ如く、神は人間自身の産物であるが故に、人間自身が、発達した科学によって其の「不可解な力」であった自然現象を完全に究明して「恐怖」の原因を除き、そして、社会的生産関係に於ては奴隷的立場から解放されて自由人となり、そこに何等の哀願的救済を要せぬ生活者となった場合、即ち人間が自分自身を完全にかち得た場合は宗教は必然的に消滅する性質のものである、と彼等は説くのである。之に関し直接エンゲルスの言葉を引用して見ると、
「社会が財産を獲得し、全ての生産手段を計画的に行使し、以て社会自体並びにすべての社会成員を、隷属――現在に於ては彼等は彼等自身の生産した、しかし彼等に巨大な外部的力となって対立する所の生産手段によって此の隷属の中におかれてゐる――から解放した場合、かくて人間が単に考ふるのみならず、指導をも行ふに至った場合に於て始めて、今日なほ宗教のなかに反映したるところの、最後の外部的力が消滅し、これと共に宗教的反映自体も消滅するのである。それは蓋し反映すべき何物もなくなったといふ単純な理由からである。」
Page 308
と説いてをる。マルクス主義のいふ宗教消滅の原理論はザットこんな要領である。かくてマルクスは、
「宗教的苦難は一つには現実的艱難の表現であると共に、又一つには現在的艱難に対する抗弁である。宗教は抑圧せられた生きものの嘆息であり、……民衆の阿片である」
だから
「民衆の幻想的幸福としての宗教を止揚することは彼等の真実の幸福を要求することである」
等の真実の幸福を要求することである」として、宗教否定の必然性を示してをる。問題の反宗教運動理論はかかる理論をそのまま踏襲したものであるが、ここで上記の理論を反宗運動の一闘士、秋田氏の文句を以て摘要して反宗理論の紹介は終ることにしよう。
「人間が自分自身の主人とならないかぎり、人間が外部的な力によって――生産力の未発達な段階に於ては自然力、生産力の発達した段階に於ては社会力によって――その現実的生活を支配されてゐるかぎり、宗教は存続する」
「人間が自分自らを中心に動くやうになるのは、社会主義社会に於てのみ、プロレタリヤ革命によってのみ可能である。……未来の社会にあっては、あらゆる宗教が完全に消滅する」
四
さて、以上見てきたマルクス主義の宗教否定論の批判にあたって、先づ基本的に批判すべきは、彼等がいふごとく宗教は、超人間的な「神」を必須条件とせねばならぬものであるか、どうかといふ問題である。なぜなれば、佛教の如くキリスト教的超自然的「神」を必須条件としない宗教も厳存してをるからである。と云へば彼等は「反宗教闘争」の中にもいふごとく「佛教は無神論の立場に立つなどといって、佛教徒はマルクス主義者の宗教否定の論鋒を避けようとするが、佛教の教理を一瞥して見よ、そこには超自然的の信仰が無数にある」と、再び反駁するであらう。成程、現在の寺院佛教は有神的信仰を持って居るものが少くないが、従って、寺院佛教者が、佛教を本来の無神論的立場だと主張するには、現在の信仰形式にかなり多くの揚棄すべきものがあることを反省せねばならないが、しかし彼等が佛教を再検して詳……
Page 309
細に研究すれば、佛教本来の教理は明らかに無神論であることを知るであらう。
佛陀は当時の婆羅門教――天地創造の神、大梵の信仰――を否定して、四諦、十二因縁のごとき因果の理、縁起の法を説かれた。その入滅に当っては「自らを燈明として他に依る勿れ、法を燈明として他に依る勿れ」と遺教されたといふ如きは一層にその無神論を証明する経文であって、佛教こそ実に、マルクスの言った「宗教の批判は人間に対する最高の実在は人間であるといふ教義を以て終る」の文句を肯定しつつ、進んで、吾人に言はしめれば、「人間の理想する最高の人間こそ佛陀であって、宗教は佛陀の渇仰に於て理想的完成を見る」と添加したいが、とまれ、佛教には何等の超自然的「神」の実在など認めぬ本来無神論教である。
之れに就ては先頃、「読売」の宗教欄に於て問題となった高楠博士の佛教無神主義の主張もあり、また最近「現代佛教」の七月号で、加藤精神氏は「佛教の無神論、無霊魂に就いて」の論題下に、
「要約すれば、佛教は徹頭徹尾無霊魂説であり、無神論である。然るに、佛教学者中、往々『大乗佛教は有神論なり』と主張する者あるは、佛教に対する彼等の誤診である」
といってをられる。また木村泰賢博士は、その著「真空より妙有へ」の中に、
「佛陀は何物にも依憑するなく、自ら佛陀となったといふ以上、ここに『神と人との関係』なるものは――その神を法又は涅槃と解せざる限り――到底成立の余地なしといはねばならぬ。……然らば佛教は遂に宗教でないかといふに、難かしき理窟は暫く措いて、実際上、佛教は世界の三大宗教の一として取扱はれて、且つ人々は之によりて安心立命を得てゐる以上、何といっても宗教であることの事実には疑がない。理論上、佛教に対して宗教か否かを論ぜねばならぬのは、所詮、余りに人格神を宗教の主要素と見、他に別に宗教的要求に関して必要な要素を見逃した結果である」
「宗教心の本質は自由の要求と解脱の要求とが、からみ合ふ所にある限り、この要求に満足を与へられば神なくともそれで宗教たりうる」
と説いてをられる。かくの如く佛教は確かに無神論に立つ宗教で、それは単なる教空や佛陀の了解に止まらずし……
Page 310
て、たとへば、禅宗のごとき宗派さへも存続してをる限り、反宗教運動は「神は宗教の基本的特徴」だといふ彼等の宗教否定の前提を、宗教に対する認識不足として撤回して出直すか、或はキリスト教及び有神的形式をもつ既成佛教団といふ限界に於ての運動とせずしては、彼等が科学的といふだけそれだけ宗教一般として不当な運動と見ねばなるまい。
かくして、宗教の基本的特徴は「神」にでなく他に之を求めるべきであらう。
五
然らば、宗教の特徴は何か?
「宗教」といふ言葉は、しばしば「信仰」といふ言葉と同義語に使用されてをるが、この「信仰」の語こそは宗教の本質そのものを最も適切に説明してくれるものではあるまいか。即ち宗教とは信ずる生活のことである。信ずる対象は場合によって「神」であり真理であり、其外色々に変化してよいもかく信じきった対象の前に無条件に一切をささげ、それによって自然的にも社会的にも個人的にも、すべての矛盾が統一されて、いはば「安心立命」して、満足を感じ力を感ずる全一なる絶対的生活のことである。フォイエルバッハは「宗教の根源は依属感である」といった。シュライエルマッヘルは「絶対的なる信頼の感情である」といって「神は宗教の必須物ではない」とした。またリッチェルは「宗教を以て、現に活きて働く経験だ」と見た。
佛教に於ては神をもたぬ宗派がいくらでもあることは言ふまでもないことで、結局「神」はなくても宗教は成立してをるが、信仰の態度なくては宗教は不可能であって、従って、キリスト教的「神」の否定は、いきなり宗教の否定ではありえないことを知らねばならぬ。人間が感性的であり、何等かの方法によって、生活の矛盾を統一せんとする生活者であるかぎり、宗教の否定は人間らしき人間の否定だともいへるであらう。シンクレアーの言葉をかりていへば、
「宗教は真の意味に於ては、霊的衝動の最も根本的なものであり、熱烈な生命愛であり、生命の貴さを感ずることであり、生命の愛養助成の慾望である。その意味では思想する凡ての人間は宗教的でなければならない。その意味では『宗教』は永遠の自己更生力であ……
Page 311
り、吾人々類のまことの本性である。その意味では、私は宗教を攻撃しようなど毛頭思ってゐない。否、私は宗教は、その意味に於ては、決して攻撃などしうるものではないといふことを明かしたい」
かうした絶対生活は、当のマルクス主義者の生活態度そのものが最も手近く物語るものではないか。彼等は「神」の宗教を否定してマルクス主義宗教を提唱してゐるといはれまいか。彼等の態度は、昔、日蓮聖人が法華経を提げて余他の一切の宗教を排撃しぬかれた信仰的態度と全く同様ではないか。といへば彼等は、これは真理の把持であって宗教信仰ではないと反駁するであらうが、それは独断である。なぜならば、日蓮宗が題目の、真宗が念佛の、キリスト教が神の、それぞれの信仰を提唱するのも決して無批判的盲信ではない。それぞれその信仰に人生社会の純一原理を見ての実践運動であるかぎり、それが何が故に真理把持――勿論そのイデオロギーの真理性には優劣があらう。過去に於ても幾多の宗派が次第に揚棄されてきたやうに、時代不相応のイデオロギーをもつ宗教はドンドン清算されるべきではあるが――の態度でないと拒否できようか。いづれも統一原理をかかげた真理把持の絶対生活ではないか。従って宗教問題は宗教そのものの否定でなく、その内容としてのイデオロギーが問題として批判されるべきであらう。
六
然らばキリスト教的イデオロギーは?
神学のもつ世界観、人生観は、すでにルネッサンスに依って峠を越えてをる。次いで、フォイエルバッハの「神学の秘密は人間学である」といふ一句で近代の人間主義的平野は展望されて「神」の姿は遥か峠の彼方に没してをるし、佛教間にあっても、所謂他力的彼岸主義は、その清算期が刻々近づきつつあるは、この頃八釜しく問題にされる異安心問題等が雄弁に物言ってをるから、之に関して多くを贅しないで問題をマルクス主義の要点批判へと運ばう。
ただ一言ここで説明を要するは幻想的「神」の発生がマルクス主義が見たごとく自然や生産関係からのみでなく、人間の本性的産物でもあることである。それはこんど佐野学氏が法廷に於て、「故渡辺政之輔氏其他に、追悼の意を表す」と述べたこの声――反宗運動の巨頭の発……
Page 312
したるこの声はそもそも何を物語るか? 「追悼」の弁解は「功績を頌したに過ぎぬ」ものであっても、亡者の個的人格に対して表明されたその意識こそ生産関係等とは独立して人間にアニミズム的要求の存する証左ではあるまいか。かくして神の観念は必ずしも人間の要求する「真実の幸福」と対照的のものとのみは言へないことを知るべきであらう。
さて、マルクス主義の社会観人生観の根本哲学は唯物史観であることは今更言ふまでもない。唯物史観は精神価値を認容しない機械的唯物論と弁別してをる。エンゲルスは、
「政治的、法律的、哲学的、宗教的、文学的、芸術的等々のものの発展は、経済的発展に基礎を置いてをる。併しながら此等のものはすべて相互に反応し、且つ経済的基礎にも反応する。それは、経済的状態が唯一の能動的な原因であって、他のすべてのものは受動的な結果に過ぎぬといふのでは決してない。否寧ろそれは究極に於て常に遂行せられる経済的必然性の基礎の上に立てる相互作用である」
と委曲をつくしてをるが、此の文章の中でも、気を止めて読めば「究極に於て……経済的必然性の基礎の上に立てる」といふ文句は経済関係は対立する余他の事象と相互作用とはいふものの決して同位ではないことを示し、之をエンゲルスの他の文章、
「歴史に於ける究極の決定的要素は現実生活の生産及び再生産である」
といふ文章と照応すれば、色々に中間的相互作用は説くものの、結局物質による精神の規定を説くのが唯物史観で、もっとツキつめれば、唯物論哲学の上に立つ以外のものではない。
さて、かうした唯物史観は、果して正しき世界観であり人生の統一原理として真に人間に自由をもたらしうるものであらうか。
彼等は唯物史観に則って革命されたる社会主義社会に於ては「自分自身が主人」となって完全なる自由が享楽され従って宗教は消滅するといふが、それは、彼等の理論からは結果せぬ幻想ではあるまいか。なぜなれば、エンゲルスは「世界は出来上った事物の複合体と解すべきでなく、過程の複合体と解すべき」だと考へ、そして発展は世界の内部的矛盾によって行はれるといふ世界……
Page 313
観である故に、発展の車輪が停止せぬかぎり新しき矛盾は不断に展開する。そして矛盾は言ふまでもなく苦悩の原因であるが故に、そこに何等かの観念的作用を加へぬかぎり、自由の意識は社会革命の必然としては完全に反映し保留されないからである。といへば彼等は「自由とは意識された必然性だ」と弁証しきたるであらうが、それならば、自由はいかなる現実――たとへば革命されざる現社会にあっても意識される観念であって、殊更、社会革命の犠牲を払ふ必要もないことである。なぜなら、如何なる現実もすべて必然的であるからである。かくして、常に矛盾を孕む自然と社会に置かれた現実的生活者人間の本能的に求むる自由欲は決して単なる物質的生産関係の改造に依ってのみ解決され得るものでないことを悟らねばならぬ。
もとより、イデオロギーは「世界をいろいろに解釈するばかりでは駄目だ、世界を変更することが眼目」でなければならぬが、それが形式的「変更」には役立っても内容的に社会人が真に「自由」を享楽しえぬとすれば、それは「変更」のための「変更」で人間のための「変更」とはならぬ。資本のみから商品が生産されぬやうに、経済的闘争のみからは真の自由――菩提文化は将来されず、かくて社会には依然として精神的要求は存続する必然性を失はぬであらう。
元来、唯物史観は社会を発展的過程と見て、経済的下部構造と精神的上部構造との交互作用を認めるかぎりは、一期の経済的下部構造は明らかに前期の精神的上部構造からも何等かの逆影響を受けた下部構造であるべき故に、その関係は佛教に説く縁起観で、上下に分離していづれを主体とも説明できない相互関係で、一脈一体の有機体でなければならぬ。然るに、マルクス主義が弁証法といひながら物質本位に社会人生を把握することは、観念論とは遥かに実際的効果を示しても結局、唯心論と正反対に唯物論的形而上学に流れて、人生社会のありのままの把握とならず、従って正しき発展的統一原理ではありえないと思ふ。
七
かくて、唯心的桎梏から自己を解放した人類は、再び、唯物論的虜囚から社会及び自己解放の正しきイデオロギーを要求せねばウソである。科学があまりに人……
Page 314
生を見ることであるならば、弁証法の真の意味がフィンゲルト等のいふが如く「綜合的見解」といふことであるならば、再び唯物史観も止揚されねばならぬ。
佛教はいづまでも眠った獅子であってはならぬ。今こそ佛教は象牙の塔を破壊すべきである。人生永劫の真理である空観、縁起の理法をひっさげて物・心二論を揚棄し、無我主義を確立して、特権否定、自由平等の真社会実現へと直進すべきであらう。
之を要するに、反宗教運動はそれ自体矛盾した論理の上に立った運動であるけれども、この運動のもたらす功績を考へれば実践面に於ては全既成宗教団にとっては、極度の堕落性阿片性に対する最も効果的な解毒剤である。
理論面に於ては、キリスト教に対して幻想的「神」の止揚剤であらうが、佛教に対しては、加藤精神氏のいはれることく「マルクスやエンゲルスの無神論、無霊魂説を我国に宣伝して珍らしがってゐるのは、恰も遼東の豕を率ひて河北に到るの類であって」何等、本質的否定運動ではありえない。むしろ、之によって佛教の空観、縁起観はハッキリ再認識されて、彼等が唯物弁証法と誇りながら、いまだ物・心二元の対立的意識を脱化しない時、反って唯物史観の徹底――言ふべくんば実践史観への発展となるべきではあるまいか。
従って、反宗運動は、名を「反宗」にかって其の根本目的を未組織大衆――わけて農村の――をプロ運動へ組織づけにおいてをるならば問題は別だが、さしづめ当面の結果としては宗教撲滅はおろか、反って其の浄化強化の反対現象をもたらすことになるであらう。宗教の根強さはソビエット政府の権威をもってしても未だあの始末だ。況んや我が現状を顧みるとき、反宗運動の態度としては、既成ブル教団排撃こそよけれ、むしろ宗教のもつ本来の大衆性に呼びかけて、宗教をして自らの内部闘争によるプロ運動への有力なる綜合的寄与をなす余地と機会とを与へることこそ、現状にふさはしきより効果的大衆運動ではあるまいか。かの公式的マルクス主義の自瀆的英雄主義的行動の如きは、大衆の求むる「変革」を反ってより前方へ押しやる嫌ひがないではあるまいか。
もしそれ、反宗運動に対して正当なる立場を忘れて軽率なる排撃運動を試みるがごときは、余程慎まねばならぬことだ。何となればたとへ立場は反対であっても現……
Page 315
在、理想社会実現へと死力をつくしつつある生ける団体こそ、反って彼等であるからである。宗教を、佛教を毒するものは、宗教者自身でこそあれ、断じて反宗教運動ではない。
佛徒は退いて、先づ自己の生活をば佛陀の理想に照応して反省せねばウソだ。而して断然出発を新にすることこそ反宗教運動に報ひ、進んで之を止揚する唯一の道程ではあるまいか。
――六、七、一八――
(昭和六年「新興佛教の旗の下に」八月号)
