Seno'o Girō, “Conversion to Revitalized Buddhism”
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Original Japanese: Seno'o Girō (妹尾義郎) (1931). 「新興佛教への転身」 [Conversion to Revitalized Buddhism]. 『新興佛教の旗の下に』, June 1931. Reprinted in 稲垣真美編『妹尾義郎宗教論集』 (Tokyo: 大蔵出版, 1975), pp. 260–301.
English translation: Seno'o Girō (妹尾義郎) (2026). “Conversion to Revitalized Buddhism.” Trans. James Mark Shields. Radical Buddhism Project. Translated from the text reprinted in 稲垣真美編『妹尾義郎宗教論集』 (Tokyo: 大蔵出版, 1975), pp. 260–301.
新興佛教への転身
Original Japanese
[260]
一、既成宗団と資本主義の否定
B: 君はこんど日蓮主義をやめて、新興佛教運動とかをやるといふが、本当か。
A: 本当だ。
B: 何の目的でやるんだ。
A: 第一は堕落した既成教団を排撃して佛教の真価を現代に発揮したいのだ。第二は分裂した佛教を統一して、醜い宗派争ひを絶ちたいのだ。第三は佛陀の精神に反する資本主義経済組織の改造運動に参加して、愛と平等の理想社会を実現したいのだ。
B: そんなことは不可能ではないか。空想に終りはせぬか。
A: 空想ではない。既成佛教団の破滅も、資本主義の倒壊も、もう時機の問題だと心得てをる。
B: 資本主義の改造はともかくも、そんなに新たに宗教運動をやらなくても、従来の日蓮主義を一そう徹底してはだめなのか。わけて君はこれまで日蓮主義の地盤を築いてきてゐるのだから、惜しい気はしないか。
A: 真理の前には打算はできぬのが僕の気性だ。今は、新運動を決行する外僕の道はなくなつた。従来の日蓮主義は色々な意味に於て行き詰つてをる。無論他の佛教団もだが。この際どうしても根本的な革命をねらぬことには佛教は復活せぬと思ふ。丁度、資本主義に少々の修正くらゐでは駄目なと一ツやうに、宗団の堕落も病膏肓に入つてゐるからさ。
B: それは時勢に阿附する出来心ではないか。
A: 君は僕の長い信仰生活を知つてる筈だがね。
B: もう随分と長いことだ。一体、何年になるかね。
A: 僕が日蓮主義の信仰をえたのは明治四十四年だ。
[261]
そして雑誌『若人』を発刊して日蓮主義を鼓吹しだしたのは大正九年の秋からだ。だから、公的な伝道生活は十二ヶ年、私的な信仰生活は実に二十一ヶ年の長年月だ。そして信仰の熱意だけでは何人にもひけをとらぬつもりで今日まで、信仰とその宣伝に全生命をささげてきたのだから、一時の出来心などで鞍替へするには、なんぼなんでも忍びぬ因縁ではないか。
B: さう聞けばさうだ。三日連れ添ふても相手はなかなか忘れられぬといふからね。では、よくよくの覚悟だらうが、それにしても断然、日蓮聖人も捨てるとは、よく思ひきつた決断だね。
A: とんでもないことだ。日蓮聖人に対する渇仰の心は年と共に高まつてくる。今から顧みると過去の信仰生活など、まるで遊戯であつた。僕の胸に少しでも愛の心が深まり、それに従つて、少しでも具体的な菩薩行を励まうとすればする程日蓮聖人の御生涯が、お言葉がひしひしと骨まで沁みこむやうに感じられる。全くあんな偉い人はないと信じてをる。
B: それでは、どうして日蓮主義をやめるのか。
A: やめると言へば、やめるやうにも見られるが、僕としては日蓮聖人の旧套を捨てるので、反つて、その精神を現代に復活するのだと思つてる。日蓮聖人の根本精神を現代に復活させようと専念すればするほど、この新興佛教運動の可能と、そして、ただこれのみが最も時代に適応した唯一の救済運動であつて、広く、全佛教の復活はかかつてこの運動に発見されると、僕は固く確信してきたのだ。
二、日蓮主義の復活だ
B: そんなに日蓮主義を否定しても日蓮聖人に反逆とはならないか。
A: さうだ。日蓮主義も時代の必要によつて起つた一つの形式だ。聖人開教の歴史や、遺された幾多の文献に徴して見ても、形式を革めることに不都合はない。否、客観的情勢に応じて改革してこそ、まことに日蓮聖人の精神に触れたものと考へられる。聖人は実にすぐれた開明的叡智の持主で、決して株を守つて兎を待つたり、柱に膠して琴を弾ずるやうな融通のきかぬ保守的な人格ではなかつた。
[262]
孟子が孔子を評して「聖の時なる者」といつたが、それにもまして、わが日蓮聖人は時機を見る典型的な聖者であつた。「一切のことは国と時によるべし」とか、「法華経は一法なれども機により時に随つて、その行ひ万差なるべし」とか、「彼の国によかりし法なれば、必ずこの国にもよかるべしと思ふべからず」とか、挙げればきりもないが、これらに就いて見るやうに、聖人の宗教は批判の宗教である。批判は自己清算でも忠実でなくてはウソではないか。けだし、孔子が、「択んで仁にをらずんば焉んぞ知を得ん」といつたのも、ここらの消息ではあるまいか。
三、佛教の本質
B: 少しは肯ける。
A: 元来、佛教の本質がさうなのだ。「佛」とは「結ばれがほどけた」意味だといはれる位で、一定の型にこだはらぬところが特色である。それがまた解脱でもあるのだ。少し専門的に説明して見ると、佛教は「我」と「我所」、即ち個我と私有とを否定して、「無我」と「無所有」とを説かれた教へである。佛教の三原則として知られてをる有名な三法印――諸行無常・諸法無我・涅槃寂静のさいごのごときも、結局、「空」の一字に納まるので、甲乙と執着せぬ、従つて、場所によれば、甲でもあり乙でもありうる変通自在の法を説かれたものである。法華経の法師品には「一切法空」と説き、方便品には諸法実相と名づけて、いはゆる如是相・如是性・如是体云々とかの十如是の理を示して因縁による変化性を説明されてゐる。だから「法は無性なり、佛種は縁によりて起る」とも説いてある。また、法華経の序論である無量義経には、
「是の如き無相は相ならず、相ならずして相なきを名づけて実相となす。菩薩かくの如き真実の相に安住し已つて発するところの慈悲明諦にして虚しからず、衆生の所に於て真に能く苦を抜く」
と説明してあるが、つづめて言へば特定の立場――「無立場」といふ立場を否定した「無立場」の立場、畢竟、一切に執せられぬ立場に立つて、時処位に応じて変通する態度にこそ徹底した慈悲は現はれ、よく大衆を救済しうるものだと道破されたものである。従つて、日蓮主義も、無相実相の佛教哲理の例外でないから、時と場所、事情によつてはこれも揚棄して差支へないはずであつて、問題は、その時代の文化と照応して、改革すべき相当の理由があるならば思ひきつて改革してこそ佛教の本領にかなひ日蓮聖人の御精神に参到しえたものと思ふべきではあるまいか。
[263]
B: さう言はれて見ると、日蓮聖人のとられた形式でも、時勢の推移によつては改革して差支へぬわけだね。
四、形式は変化する
A: その通りだ。早い話が、卵について見ても、白味と黄味と別々の場合は、殻はなくてはならぬ大事な外形だが、もし親鳥にはぐくまれて中に雛が出来てくると、それは不必要な反対物となつてくる。そしてこれを破壊せぬことには新しき生命は出てこぬわけではないか。
B: マルクスのいふ唯物弁証法的な説明だね。
A: だれが云つたつて真理に二つはない。実に「時」といふやつは不思議な力で、一人や二人の考へではどうにもならぬ必然性をもつて迫る。だから日蓮聖人は『撰時鈔』といふ論文の冒頭には「夫れ佛法を学ばん法は、必ず先づ時を習ふべし」と筆を下して、「時鳥は春を送り鶏は暁をまつ、畜生すら猶かくの如し、何に況んや佛法を修行せんには時を糾ざるべしや」と説き、「されば機に随つて法を説くと申すは大なる僻見なり」と論じてをられる。実に徹底した識見ではないか。機といふのは個性といふ意味だから、この文は個々の個性を対象として、いはゆる「応病与薬」式の個人的救済運動を否定して、超個人的に社会一般の客観的情勢を対象として、その時代に適する社会的救済方法を主眼とせねばならぬといふ鉄案なのだ。
B: 社会科学のいふところとよく似てをるね。
A: まだよく似たところは、現代の大衆的闘争の可能を説明するものに、こんな御遺文もある。『聖愚問答鈔』の一節だが、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦書写の修行も観念工夫修練も無用なり。只折伏を行じて力――」
[264]
「――を責めよとなり、取捨その旨を得て一向に執する事なかれ」
何と徹底した宣言ではないか。佛教だといへば、すぐ坐禅工夫を連想したり、無抵抗主義を考へたりしがちな人々には、こんな文章は或は天魔の逆宣伝でもあるかに思はれるだらうが、実社会をまともに見抜いてくると、この宣言のごとく、現今のいはゆる修養などがいかに反つて阿片的役割をつとめて、あたら有為の青年を去勢してゐるか知れぬのだから、こんな時代には何としても堂々たる闘争によらずしては天国は地上には築かれぬのだ。
さらに闘争のための闘争でも困るから、「取捨その旨を得て」とあるあたりは全く行きとどいた教言ではないか。
B: さう言はれると、今まで自分たちが見た佛教はまるで見当ちがひのやうにも思はれるぞ。
A: 遠慮なく言つて、全く見当ちがひの処が多いのだ。それが推移する時代に無意識で、或は意識しても御用宗教の悲しさで、百年一日、形式ばかりの説法をくりかへされたおかげなのだ。見給へ、あの宗門の時代錯誤ぶりを。社会はナッパ服だらうが、モーニングだらうが、人格に差別なくますます機会均等となりつつあるのに、率先してさらすべき宗門内では、今に衣の色合ひやら僧階の差別やらウルサイこと限りなしである。社会では日々社会政策が徹底しつつあるのに、宗門では一体何をやつてをる?
B: その点同感だ。形式は時代に応じて改革せねばならぬことがよくわかつた。結局、時代の上に佛教を復活さすために、時代相応の形式に盛つて行かうといふ運動だね。
五、新興佛教運動の眼目
B: ところが、君は「南無妙法蓮華経」をやめて、「南無釈迦牟尼佛陀耶」と唱へるといふではないか。
A: さうするのが新興佛教運動の眼目なのだ。かりにも佛教を奉ずる佛弟子たちは、すべて念佛もやめ大日信仰もやめ、既成宗団の形式一切をやめて佛陀の御人格を讃仰した「南無釈迦牟尼佛陀耶」の旗印の下にまづ融合して、そこから新しく社会的に進出を試みようといふのだ。君はこの形式は、全佛教徒に共通する唯一根本の形式として、また同時に佛教統一の方法として、これ――
[265]
――以上よい方法が他にあると考へるか。但し、この形式はこれまで、真面目な先覚によつて既に提唱されたこともあつたが、時の至らぬためか、まだ勢力がない。しかし勢力のあるなしでなく、現代から将来への佛教界の必然的運命と僕は信じて全霊をこめて一石を置くわけだ。
B: 君の願心はよくわかる。しかし僕の腑に落ちないのは、君は「日蓮聖人の精神を生かす」のだといつたが、日蓮聖人は「日蓮の魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし」といつてゐられるのだから、もし題目をやめて南無釈迦牟尼佛陀耶と唱へる事は、聖人の精神を捨てる事にはなるまいか。
A: 尤もの疑問だ。しかしながら、その文章の前には「佛の御意は法華経なり、日蓮の魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし」とあるので、つまり、日蓮聖人は一切経のうち法華経が佛陀の根本精神を宿した経典だと信じられたゆゑに、さう申されたのだが、もし、法華経のみが佛陀の根本精神を宿す唯一の経典でないときまつてくれば、むしろ南無妙法蓮華経よりも聖人の渇仰しやまない佛陀のみ名を、「南無釈迦牟尼佛陀耶」とはつきり唱へることが、学的根拠を求めて立宗された聖人の精神に添ふ道でもあつて、決して聖人を冒瀆することにはならない、と僕は信じる。
B: もし、法華経の見方がさうなれば、君の主張は道理だが、では妙法蓮華経は佛教の根本精神でないといふのか。
六、大乗非佛説
A: そこが問題となるのだ。君は近代の佛教界に提唱されてゐる「大乗非佛説」といふ学説を聞いたことはないか。
B: 全然噂さをきかないでもないが、内容をよく知らないから、一ツ話してくれ給へ。
A: 簡単に話さう。佛教経典は大別して般若経、法華経、阿弥陀経、大日経、楞伽経等々の大乗経典と阿含経等の小乗経典とに分類されてゐた。そして、どちらも佛陀の説法を記録したものと見做されてゐたのが、近来、それらの大乗経典は直接佛陀のお説きになつた経典でないと主張するのが、「大乗非佛説」といふのだ。
B: それはさうだらう。佛教も、時代が推移し世態文化が――
[266]
――進歩するにつれて発展して、時代に適応すべく幾多の新しき経典が後来の佛弟子によつて創作されたのが大乗経典で、従つて、大乗経典は直接佛陀の説法記録でないから「大乗非佛説」といふのだ。つまり発達佛教といふ意味だ。
A: では大乗非佛説の立場から見ると法華経も、発達佛教の一つだから、法華経は佛陀の根本精神でなくなるといふのだね。
B: その通りだ。
A: では日蓮聖人時代には、七千巻からの一切経はすべて佛陀の直接説法の集録と見られてゐた訳だから、それをどうして日蓮聖人は法華経のみをとつて佛教の根本精神だと主張されたのか。
B: それは、経典そのものが、さう説明してをるのだ。わけて日本佛教の母体である天台の教学もさう説明してゐるので、それによると、一切経は佛陀が三十成道八十入滅の五十年間の説法で、これを前後二期に大別して前期を四十二ヶ年とし、法華以前の一切経は四十二年間の説法で、之を爾前経といひ、後八ヶ年の法華経が佛陀の真精神を顕揚された真実の経典で、爾前経はすべて法華経顕揚のために説かれた方便経だと論断されてゐたのだ。
A: それには相当の経証があるのか。
B: さうだ。たとへば法華経の法師品の「わが所説の諸経あり、而も此の中に於て法華最も第一なり」など法華経を最高に価値づけた経文は外にも沢山あるが、わけてその序論としてある無量義経にある「性欲不同なれば種々に法を説き、種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕はさず」といふ文句や、方便品の「正直に方便を捨てて但無上道を説く」のごときは有力な文証だから当時の佛教統一眼には天台の教学も無理からぬ話だつたのである。一方法華経薬王菩薩品に「後五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」といふ経証があつて、互に照合されて法華経は末法時代に流布すべき唯一の経典とまで言はれてゐた。
[267]
さて、かうした伝統の中に出現して佛教の分裂と堕落とを憤慨して革正統一を畢生の志願とされたのが日蓮聖人なのだ。而も時は佛滅後二千年を過ぎたる末法の初期に当つてゐた。聖人の聡明と熱誠に法華経がどう感応したかは説明するまでもないことであらう。
B: さう聞くと、「法華経の行者日蓮」の自覚には、たしかに必然的約束があるやうに考へられたのは無理ではない。だから、法華経以外の一切の宗派は否定せねばならなかつたといふわけだね。
A: さうだ。この教学に立つ限りに於て、末法に於ては法華経を離れて佛教の精神はなかつたのだ。一寸長いが、聖人が書かれた報恩抄の一節を見ると、この辺の消息がよくわかる。
此等の宗々みな本経本論によりて我も我も一切経をきはめたりと云々。彼の人々云く一切経の中には華厳経第一なり、法華経・大日経は臣下のごとし。真言宗云く一切経の中には大日経第一なり、余経は衆星の如し。禅宗云く一切経の中には楞伽経第一なり、乃至余宗かくのごとし。而も上に挙ぐる諸師は世間の人々各々おもへり、諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随ふがごとし。我等凡夫はいづれの師々信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし。世間をみるに各々我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず、家に二人の主あれば其家必ずやぶる。一切経も又かくのごとくや有るらん。何れの経にてもをはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。而るに十宗七宗まで各々論師して随はすべき国に七八十人の大王ありて万民をだやかならじ。いかんがせんと疑ふところに、一ツの願ひを立つ。我れ八宗十宗に随はじ、天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに涅槃経に申す「法に依つて人に依らざれ」等云々、中には佛を除き奉りて外の普賢菩薩文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸人師なり。此経に又云く、「了義経に依つて不了義経に依らざれ」等云々、此経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば佛の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切――
[268]
――経の心をば知るべきか。随つて、法華経の文を開き奉れば「此法華経は諸経の中に於て最も其上に在」等云々。
B: 成る程、そうはつきりした。では、日蓮聖人が「法華経第一」と論定されたのは、決して聖人の独断でなく、ひたすら経典に依つて佛陀の精神を求められた結果であつて、言ひ換へれば、あくまでも客観的に学術的に佛教の根本精神を求められた末、法華経が佛陀の根本精神だとされたわけだね。
A: その通りだ。それについて聖人は「是れひとへに日蓮が智の賢きにあらず、時のしからしむるのみ、春は花さき秋は果なる夏はあたたかに冬はつめたし、時のしからしむるに有らずや」といつて、末法に於ける法華経流布の必然性を説明してをられる。だが、これだけなら問題はないのだが、前述べた大乗非佛説を真とするならば、かうした学的根拠がくづれるから、折角、日蓮聖人が六十年の血涙をもつて宣伝された法華経も時代的清算を受けねばならぬ羽目になつてくるのだ。
B: では、やつぱり日蓮聖人の認識不足といふやつか。
A: 君はまだ僕の説明がのみ込めてゐない。認識不足どころか、その当時の佛教革命運動としてはこれが唯一の道であつたのだ。非難しようもない正論であつたのだ。けれども、「時」が推移して、経典に加へられた科学的の研究のもたらした自然の結果で、聖人の認識不足といふべきではない。従つて「必ず先づ時を習ふべし」といはれる聖人は「時」の批判の前には、きつと何の未練をいだかれる方でもないと、僕は信ずる。
七、天台教学の清算
A: 「時」といへばまだ問題がある。近代の研究によると佛陀の誕生年代がだいへん変つてきた。
B: 三千年前ではなくなつたのか。日曜学校で、僕たちは「昔も昔三千年」と歌つたのを覚えてゐるが。
A: それが、現今では高楠博士によると二千四百九十七年だといはれ、宇井博士によると二千三百九十七年だといはれてきた。
B: 学者の勝手の臆測ぢやないのか。
A: さう頭から学問を馬鹿にしてはこまる。それぞれ研究の結果で、いづれによせ、まづ西紀前四五百年の方と見られる。そして、従来十九出家、三十成道、八十入――
[269]
――滅といはれたのが、二十九出家、三十五成道、八十入滅といふのが定説となつた。
B: では、説法は四十五年間で前に聞いた三十成道八十入滅の五十年説法を基礎とした天台の五時判教学がまたあやしくなるわけだね。
A: 仕方もないことだ。法華経八年とすれば爾前経は三十七年となつて「四十余年未顕真実」の文がぐらつくし、爾前経四十二年とすれば、法華経は僅かに三年の説法となる計算だ。
B: しかし、何しろ二千四五百年前のことだから、そんなに細かく計算して見ても、果していづれが真かわかりかねるだらうね。
A: 何しろ、印度は歴史の記録がない国だ。さうだから、正確には行くまいが、しかし研究には敬意を表せねばいけない。何しろ星の世界の数字が正確に的中する今日の科学だからね。――まあ、いづれにしても天台教学は清算され従つて日蓮教学も再吟味されねばならなくなつたのは事実である。のみならず、現在、法華経の成立についても、こんな工合にも説かれてゐる。法華経の原形は始めは序品から法師品第十までであつたのが、ついで嘱累品第二十二までが添加され、さらに六品が添加されて現行のやうな二十八品の体裁になつたといふのだ。僕も数回法華経の講義をして見て、文段のくぎりの関係は、そのやうにも感ぜられるが、ともかく、法華経はじめ大乗経典が、発達佛教であることは、現今ではまづ否めぬ定論と見て差支ないであらう。
B: では小乗経典は釈尊みづから書かれたのか。
A: さうではない。やはり小乗経も釈尊の滅後、弟子たちが結集したのだ。
B: それなら、厳密にいへば小乗経も非佛説といへるし、もし、小乗経を佛説といふならば大乗経も共に佛説と見て差支へないではないか。
A: それは一理あることだ。さうした反駁はこれまでも放たれたやうだが、しかし、それは詭弁であらう。佛陀の直接の弟子たちがあざやかな記憶そのままを吐き出して結集したのと、年代を経た孫弟子・孫々弟子たちが、それらの記録を参考して書いた経典とには、おのづから差格をつけるのが本当ではあるまいか。
B: では、発達佛教といふ証拠は十分にあるのか。
A: それは文字や文体や其他種々なる考証によつて学――
[270]
――者が論定してるのだから学的良心は之を承認せざるを得ない。
八、信仰に客観性の必要
B: それは判つた。しかし信仰と学問とは違ふから、たとへ大乗非佛説でも信仰としては大乗非佛説を問題とする必要はないではないか。
A: それも一理だ。俗に「鰯の頭も信心から」といふほどだからね。しかしながらそこが大事なところと思ふ。迷信と正しき信仰との岐路はそこだ。経文に「信心があつても学問がないと迷信をまし、学問があつても信心がないと邪見をます。信心と学問とは円融して生活の本となる」と説かれたが、科学を無視してただ信じるといつた主観的な信心では正しい信仰とはいはれない。内容に客観性がないと社会的な普遍性がかけて、真の満足がえにくくなる。
それについて、卑近な例を一つ取つて見よう。ここに天理教信心の老婆があつたとする。彼女はただ信心一巻きでもあつた。ところが学校出の一人息子が信仰を求めるやうになつて先づ老母のやつてる天理信心を研究した。ところが学的に満足がえられないで、彼はかりにキリスト教に走つたとする。すると一家で、一人は「助け給へ!」、一人は「アーメン」となつた場合の家庭の空気はどうだらうか。信仰は主観的なものとして二人が平気でをれるだらうか。二人が自己の信仰に権威を感じて、より忠実であればあるほど他を顧みて互に飽きたらぬある切なさを感じないですむであらうか。
ところがもし反対に、学的にも承認されうる信仰であつて、息子も同じ天理教を信じたなれば、たとへ二人は信仰に対する見地や熱心さに相違や深浅はあつても、ともかく家庭一体となつて一ツ信仰生活が送れて、一さう満足がえられるわけではないだらうか。
B: それはその通りだ。信仰といはず、何事も気の合つたといふことは嬉しいことだ。
A: だからさ、信仰の対象が学術的にも道徳的にも芸術的にも正しい内容をもつてをるならば、夫々見地はちがつても、地上に精神的な兄弟姉妹をより多く吸収し包容しえられるわけであらう。ここが信仰にも客観的科学的要素を必要とする所以であつて、わけて現代に於て然りといはねばならない。かりにも日蓮聖人が「佛法とは道理なり」と申されたやうに、道理の上に立つて信仰を――
[271]
――求めようとする求道者には最早や大乗非佛説を無視して「法華経のみが佛陀の精神」だと信ずることは、それが独断の肯定で、現代から将来へ、いよいよ通用できぬ宗教になると僕は思ふ。
B: 宗教がただ主観的信心では駄目だといふことはよくわかつた。また大乗非佛説によると六百五十年前の日蓮教学そのままでは現代人に通用せぬこともよくわかつた。では、若し現代に日蓮聖人がお生れになつたら、例の「諸宗は無得道、堕地獄の根源、法華独り成佛の法」と四ヶ格言を振り廻はして相変らず唱題の一本槍で現代の救済運動はなさらぬだらうね。
A: さうだと思ふ。実は僕がかうした新運動を創めるに及んだのは、「もし現代日蓮聖人が出現されたら何をなさるだらうか」と長い間自問自答した末のことだ。あの学的良心の鋭いお方が、六百五十年後の現代、変つた世相文化や、わけて様々に研究されてきた現代佛教に目を掩ふて昔のままに「諸宗無得道、法華経成佛道」と申されまいし、従つて唱題絶対論もやられないにきまつてゐる。
B: では、どういふ形態をおとりになると思ふか。
A: おそらく、こんどの新運動のやうな形式ではあるまいか。佛教の本質と時代的見地から。
B: 諸宗といへば、真宗では大乗非佛説をどう見てるか。
九、愛と平等は佛教の精神
A: 現代の真面目な求道者はすべて非佛説論者のやうだ。この頃もその問題で金子大栄師は破門された。少し理性のある者が、だれだつて念佛にいふやうな西方十万億土や他力本願などと今頃、有頂天にありがたがる馬鹿者はないであらう。
B: では阿弥陀佛などどう見るのか。
A: 阿弥陀佛は理想される自我だ、西方十万億土は理想される現実だ。法蔵比丘とは人間根本の自我で彼の阿弥陀への修行こそ自我実現の生活を意味する。だから阿弥陀佛に救はれたいといふのは、正しさを求める生活それ自身のよろこびの象徴で、救済とは畢竟愛の生活そのものなのだ。早い話が愛は恐ろしかるべき死線さへ勇敢に活歩する。経に「慈心決定すれば畏れなし」といふものこの道理であらう。
[272]
B: 法華経の主意も勿論さうした教へだらうね。
A: その通りだ。法華経の眼目といはれる寿量品の「自我得佛来」もつまりは自我の自覚を讃美したもので、経典は表現こそちがふが、意味はすべて同じである。もし一切経を佛説と見れば、同じ佛説の法華経や無量義経に前にいつた「四十余年未顕真実」とあるのだから阿弥陀経や大日経などはすべて方便経で、まさしく法華経の前に閉捨すべきであらう。だが、発達佛教とすれば一切経は釈迦牟尼佛の自覚内容の説明で、詮じつめれば愛と平等との表象である。この自覚によつて「諸の悪は作すなかれ、衆善は奉行して自ら其の心を浄む、是れ諸の佛教なり」といふのが、全佛教を一貫する規範であらう。
B: さうすると佛教徒のよくやる加持祈禱や御利益信心など断然、佛教の正しい道ではないわけだね。
A: さうだ。厳密な意味に於て、佛教の本来は無神論である。興起行経にこんな説法がのつてゐる。「弟子等よ、茲に三ツの間違つた見解がある。賢い人はその間違ひをたしかめて人に捨てさせようとする。もし其の見解をつきとめて行けば、此の世の作業を否定することになるであらう。三ツとは何かといふに、或る出家は人間がこの世に於て作業するいかなる苦も楽も、不苦不楽も、すべて前生の業に依ると主張する。また或る出家は、それはすべて自在天の創造を因とすると云ふ。また或る者は、すべて因もなければ縁もないと唱へてゐる。」つまり宿命論と、創造神論と、偶然論とを否定して、次いで四諦十二因縁の法を説くのであるが、この私の説く法は、苟くも心あるもの悪口を云ひ、污し、誹り、斥けることの出来ないものである」と。「四諦十二因縁」といふのは、一口にいへば、転迷開悟の道をいふので、人生の苦悩は認識不足から生じるのだから、正しき智慧を完得すべく八正道といふ方法を示されたのだ。だから佛教は正しく現実を見て、正しく実践することをすすめた教へである。「佛陀」といふ言葉からが「定全なる智慧をえた人」といふ意味だ。
一〇、佛教は無神論なり
B: さうした神様は勿論、現代人は次第に認容しなく――
[273]
――なつた。それに関してブラウント大司教著『神と資本家』の中にこんな批評があつた。
「神はこの世界から悪をのぞかうと願つて出来ないのか。又は最後に、出来てそれをしたがつてゐるかいづれかである。もし彼が望んでゐて出来ないのであつたらそれは無能であつて神の性質に矛盾する。もしも彼が出来てそれをしようとしないのならそれは悪である。そして、それも神の性質に反するものである。もしも、彼がそれを欲せずかつ出来ないのであつたら、それは悪と無能の二ツである。もし彼が悪をのぞくことを希望し、また出来るのであれば、それは神に与へられてある唯一の想像であるが、それでは地上に悪があるといふことは、どうして起るのか?」と。
A: キリスト教にとつては痛い非難だ。佛教前のバラモン教には、さうした天地創造の神を説いたり、やたら苦行を説いたのだが、佛陀はそれを否定して前のごとく四諦十二因縁の法を説かれた。それについてこんな話もある。スナカタといふ背教者が「佛陀には超人の法がない、充分にすぐれた知見がない、彼は自分の頭で考へたもの、思ひ付きの法を説くのである。而して、その法に依れば、考へさへするものは、正しく苦のない境地に達することができるといふのである」といふ悪口をついて廻つた時、佛陀は高弟舎利弗に向つて言はれることには、スナカタは怒つてそのやうなことを云つたのだが、彼は却つて佛を讃へてゐるのである。「その法に依れば、考へさへするものは、正しく苦のない境地に達することができるといふのである」といふのは、佛を讃へるのである」云々と。これで見るやうに、佛教の極意は、正しく人生の実相を見、正しく思惟し、そして正しく生活することを教へるのだ。
B: しかし日蓮聖人は祈禱されたといふではないか。
A: さうした遺文もあるにはあるが、あつても傍系だ。聖人の本心は『開目鈔』にあるやうに「詮ずるところは天も捨て給へ、諸難にも値へ、身命を期とせん……我れ日本の柱とならん等と誓ひし願やぶるべからず」といつた大道念であつた。現在やつてる加持祈禱など聖人の面よごしだ。
一一、佛陀信仰の正しき意味
B: では「南無釈迦牟尼佛陀耶」と唱へるのは、どう――
[274]
――いふ意味で唱へるのだ。
A: 教父としての釈尊への感謝渇仰で、実在する創造神としてではない。佛教は「法を見る者は佛を見る」といはれたやうに、佛陀の教へに従つて幾分でも真理を認識し体得して悦びを感ずるものは、その理想的体験者釈迦牟尼佛が自然に讃嘆され渇仰され感謝されざるを得ないのである。また、この人格を讃嘆し渇仰し感謝することは、更により深く真理の生活へ自らを導入することにもなるのだ。釈迦牟尼佛を祈つたからとて米櫃に米が湧いてはこぬ。貧乏のときは、佛陀はシツカリ働いて金を儲ける工面をせよと教へられよう。もし現在のごとく経済組織がよくないために働いても働き甲斐のない場合は、先づわるい組織を改造して大衆の福利を保障せよと教へられよう。千遍一律、「稼ぐに追ひつく貧乏なし」などとはいはれない筈だ。病気したら、願掛け祈禱よりも、先づ適当な治療をするやう、病気の原因を内省して、衛生を守るやうにと教へられたのがわが佛陀であるね。
B: さすがに佛陀はマルクス流の学説も心得てゐられるね。
A: それは讃め過ぎだ。マルクスの学説は知られよう筈がないではないか。知られなくたつて佛陀の権威の減損とはならない。何しろ二千五百年も前だ、知られないのが本当ではないか。只佛陀の愛と平等の生活を真実に思ふ者には時処位に適応する認識が自然体得されてくるわけだから、佛教は不断に時代と共に発展してゆくのだ。前に言つた発達佛教もかうした過程であるが、つまり我等は佛教について人生々活の根本基調を学べばいいのだ。そして、その基調に立つとき適宜の生活が展開するので、僕はそれを「無常より信愛へ」と標語してをる。
B: では孔子が「里は仁を美しとす、択んで仁に居らずんば焉んぞ知を得ん」といつたのも、同じ人生観だね。
A: さうだと思ふ。儒教の天も、キリスト教の神も、日本の神道も佛教の佛陀も説明こそ異るが、つきつめれば、根ざすところは同じ聖愛の道に相違ないと僕は思ふてをる。
一二、佛耶二教は融合する
B: いつか帰一協会といふのが起されて神儒佛三教の――
[275]
――帰一融合が目ろまれたことがあつたが、して見ると、キリスト教とも一致できるわけだね。
A: 僕は一致する日が来ると信じてをる。世界各国の言語文字をはじめ文化一般が次第に融合し、わけて経済機構が統一されてくると宗教ばかりいつまでも戦国状態ではをれなくなる。かくて、両者の止揚された新運動が開始されるのではないかと考へる。何しろ人間心霊の奥殿は本来一ツの筈だから、今のやうに反行すべきではあるまい。宗教の本領よりすれば、現在提唱されてをる政治的世界連盟よりも一足早く世界宗教連盟は提唱されて然るべきだ。世界同胞の実現努力が、宗教運動の使命であらねばならぬと僕は信じる。
一三、既成宗団の消滅は必然
B: 同感だ。して見ると先づ先づこの場合は佛教の統一運動が先決問題だ。今のままの分裂は、佛教徒の無道念の自己証明以外の何物でもないわけとなる。一体、君、現在佛教は幾派に分裂してをるのか。
A: 十三宗五十六派とか聞いた。
B: しかし、統一運動といふが、実際には更に一派を増加することにはならないか。
A: さしあたり一派増加することになつても、それが時代に適応した運動であるならば、それの拡大強化によつて時代錯誤の既成宗団は無力のものから次第に自然に清算消滅して行く。恰も鎌倉時代の新興佛教が奈良平安の既成佛教団の勢力を奪つて自然に解消せしめたやうにだ。
B: すると、こんどの新興佛教運動は現代の要求する佛教の最高形態といふわけだね。
A: 前にも述べた通りだ。佛教が佛陀の人格を源泉としてをるかぎり、帰一する道はこれより外にないのではあるまいか。
B: 少くとも各宗に共通する無難の方法ではあらう。実際、どの宗門をたたいても、各宗それぞれ相当の教理はあるやうだが、「わが宗こそ佛意を得たり」と排他的自揚してゐては初心の求道者は全くまごつく。而も似たりよつたり現実逃避の阿片的説法ばかりでは現代人は御免蒙るばかりか佛教排撃の声の持主たらしめるも当然だ。
A: 朽木は彫るべからず、革命を恐れる必要はない。
[276]
謙抑の典型と見られる親鸞さへもが立宗の時は「釈尊の遺教ことごとく龍宮に入り給ふ」と叫んだではないか。露骨にいへば既成佛教は一切時代錯誤だと排撃したのだ。
一四、新運動の依経について
B: わかつた。君はさつき「南無釈迦牟尼佛陀耶」といつたが、あれは「南無釈迦牟尼佛」ではいけないのか。
A: あれは梵語の正確な使用法では「南無」といふ場合は主格の語尾に「アーヤー」といふ助詞がついて為格になる。かくて我々が「釈迦牟尼佛を敬礼す」或は「釈迦牟尼佛に帰依す」といふ意味が成立するのだが、南無釈迦牟尼佛では釈迦牟尼佛は主格だから、「南無」と主格との関係がつかぬのださうである。この際、佛教統一の新興運動にあたつて、これも正確な使用法にあらためたわけである。
B: それもわかつた。依経はどうなるのか。今度は、法華経とか阿弥陀経とか一ツにきめるわけにはいくまい。さうして、あの大部の一切経全部を携帯することも不可能だし。
A: お経に本末軽重こそあれ、一切経は佛陀の愛と平等の認識とに出発したものと見るからには、一経典のみをとることは、わけて今までの宗派的見地からして不可能のことではあるは君もいふ通りだ。そこで、当座の便宜上、木津無庵師等の編纂された『新訳佛教聖典』を採用することにした。之は一切経の骨子を現代的に選訳した手ごろな訳本である。
B: 抄訳に木津師等の個性が反映してゐないか。
A: それは余儀ないことで、もっと修正されたものが欲しいと思ふてをる。できるなら僕等同志の手で編纂した訳本が出したく思ふてをる。
B: さうすると、そこには再び分裂の必然性が胚胎してゐると思はないか。
A: 思はぬではない。信者の志向に相異があるのだから経典本位に行けば自然さうなる。だから、今も「無量義は一法より生ず」とか、「性欲不同なれば種々に法を説き」とか、経典が分説された必然性を肯定して、題名から「無量義」と名づけた経典が出来たくらゐであつて、経典本位にすればキツトまた分裂するから、経典に――
[277]
――よつて佛陀を規定せず、佛陀の人格渇仰に出発して、全経典の本旨を愛と平等の認識に還元して考へれば無理なく統一できはしまいか。要は、経文の信仰から実在のごとく信じられた阿弥陀佛や大日如来などは、すべて釈尊の人格の表象であつたことを確信して、全佛教徒が「南無釈迦牟尼佛陀耶」と帰一することを提唱するのだ。例へば、キリスト教に幾派あつても、アーメンと唱へる信仰の対象――神については一致してをるやうに。
B: 日蓮聖人の宗教革命の本意も結局そこであつたのではないか。
A: その通りだ。それに今度大乗非佛説等の現代的批判を加へて一さう醇化し、一方、幾多の俗信迷信によつて腐蝕されたる題目の旧套を取り払つて、最もあざやかなる佛教統一の眼目を鮮明し進んでは世界同胞の精神的契機を決定したいのである。従つてまた「南無釈迦牟尼佛陀耶」の叫びは現実生活の基礎条件である経済組織を克明に批判して、現資本主義経済組織が佛陀の愛と平等の認識に反するものなるがゆゑに、断然、佛陀の愛と平等の名によつて、之が改造に加勢せざるを得なくなつたのだ。
B: その問題はこんどの新興佛教運動の三大眼目の一ツのやうに思はれるが、その説明を聞く前に、新興佛教運動では葬式など、どうするのか。まさか坊さんには頼めまい。
一五、葬儀について
A: 戯談ではない。あんな坊主に引導をわたして貰つて何になると思ふか。今日も某大僧正の密葬に参列したが、生前、その恩師を裏切つた某管長が導師となつて金襴の袈裟衣を着飾つた一連の坊さんを従へて読経唱題して引導したのを見た。恩師に声あらば、宝塔中、何を述懐し給ふぞ! 僕は涙のみ流れた。ブルジョアが献上した不労所得の寄附金で美しく飾り立てた本堂で、去勢されたやうな坊主連が昔ながらの鐃鉢のドラ音を立てて、意味も通ぜぬ陀羅尼を長たらしく誦じて勿体がるあたりは、すつかり俳優教役者の出来そこねでも見るやうであつた。切実に恩師を追慕し、恩師の志を新時代に活現させようと覚悟する胸に、どうして、ああした陀羅尼式葬式で満足されるものか。昔はああした形式も時代的価値――
[278]
――があつたであらうが、もう時代では一から十まで時代錯誤のことばかりだ。まるで栓がぬかれて日の経つたビールのやうに沈澱物がウヨウヨしてをる。畢竟、精神のぬけた葬式だから、ああなるのだ。
B: ではどういふ形式に改正しようといふのか。
A: 一体、君は葬式の形式が気になつて成佛できないかい。葬式の形式などは運動さへ充実してくれば運動の過程に即して自然に時代にふさはしき形式が生れてくるものと僕は信じてをる。戦場での仮埋葬がいかに厳粛であるかを見よ、また山宣の葬式がいかに感激ぶかいものであつたかを思へ、問題は生活への正義の意気込みに比例して適当な形式が生れるから、初めから葬式の形式など計算しなくてもいいと思ふ。要点としてはあくまで現代化された簡潔な精神的形式をとること、それだけで適宜したらよいではあるまいか。
B: でも葬式は人生の最後を飾る……。
A: 最後は最後にあつて飾られるものではないよ。極端にいへば、葬式などコーヒーのだしがらの処分くらゐに考へてあくまで生ける一日の生活を正義と愛との生活に立て直すことだ。日蓮聖人が「極楽百年の修行は穢土一日の功に及ばず」といはれたのはそこではないか。葬式を最後を飾る儀式と見るへ方などが、まだまだ搾取した罪の財産の幾パーセントかを布施したり寄進したりして、それが殊勝な信心であり、罪ほろぼしとなると心得たブルジョアー的イデオロギーの一変態だと見てよからう。旗上げの前に何の葬式算段ぞ。腕を組んで進む正義の進軍に屍を路頭にさらすは、もとより覚悟の前であれ、心なき千人の讃美歌よりも、同志一人の見帰る涙の手向けを欲しないか、死者は畢竟、死者として葬らしめよ!! だ。あくまでも、現実生活の中に佛教精神を体得しようとする覚悟こそ、葬式にも血涙をにじませねばならない。
B: よくわかつた。では、つづいて経済組織の改革と新興佛教運動との関係について話してくれないか。
一六、新興佛教と階級闘争
A: 今日は話がだいぶ長くなつたから、これはこの次に話すことにしよう。それまで僕が今年正月から三月に亘つて雑誌『若人』で、資本主義を対象として佛教徒のと――
[279]
――るべき態度に関して所信を発表したが、いづれパンフレットとして発刊するから、それについて研究してくれ。結局、坊さんも資本主義の寄生虫で、一般としては教役者にならざるを得ないのだから、宗教革命も結局はその基礎条件である資本主義の改造によるが一番近道だ。また新運動の目的も生活の実際問題にまで進んでこそ価値があるではあるまいか。
B: では一寸聞くが、結局、「無産運動への合流」といふ階級闘争を是認するわけか。
A: さうだ。
B: 君は前に佛教は「空」だ「無立場」だといつたが、階級闘争を是認して無産運動に加勢することは、佛教精神にそむくことにならないか。
A: 「空」であり、「無立場」であればこそ、必要に応じて無産運動の加勢が是認されるのではないか。現実に見るこの階級闘争の無視傍観は、ひつきよう自己の生活に無関心以外の何物でもない。問題はいづれに与することが正義なりや、ただそれだけだ。
B: 無産運動者がともすれば暴力的に出るが、あれでも正義なのか。
A: 無産運動の暴力行動の前に、軍隊、警察等あらゆる権力機関の支配者の厳存を君は認識しないか。かうした現実認識の上に立つて、無産運動者は理想社会の実現のため余儀なく暴力に出ねばならなくなるのだ。
B: 君は権力機関の支配者といふが、それは国家の軍隊であり警察であつて一階級に従属したものではあるまい。
A: それは名ばかりだ。事実、軍隊、警察はどの階級が支配してをるかを見給へ。君は事実の前に眼を開かねばウソだ。現在、支配階級の口にする正義や道徳はすべて片手落ちの強者道徳である。でなくしてどうして大衆のドン底生活を無視したあの栄華な生活ができるものか。
B: でも、現在彼等の立場は競争に勝ちえた立場であつて、優勝者があながち不義とは言へまい。
A: もし、それが不義でないならば、現在無産者が組合団結によつて勝たうとすることが、なぜ不義であつて之を許容しないのか。
B: それは現在の社会的秩序が乱れるからではないのか。
[280]
A: 現在の社会的秩序は、どの階級のために都合よき秩序なのか。見給へ、現在では正義も道徳もすべて階級的に色どられた正義や秩序であつて、まことの正義ではないのだ。にもかかはらず、教役者たちは或は無意識的に、或は意識的に、まことしやかに百パーセントの御用ぶりを発揮してをるのだ。もし、現支配階級が権力によつて無産運動を圧倒しようとするのが正義ならば、無産運動者が力をもつて、之をハネ返さんとするのも、同じく正義でなければならぬ。もし宗教家が暴力を不義とするならば、先づいづれの階級に向つてその撤回を強言すべきか。若し時に当つて暴力も正義視しうるならば、いづれの運動に正義の本質はより多く包蔵されてをるか。ブルでもない、プロでもないといつた中立的立場の不可能な男でもなく女でもない人間でないと同じことで、観念的正義は現在もう幽霊の世界の消息だ。而して、正義の本質は大衆の福利保障の中に見ねばウソだが、君は一体、どう思ふ。僕は、新興佛教運動の地盤はどうしても新興無産階級の中にのみ可能だと信じてをるのだ。
B: さう聞けば得心がゆく。正義は何かの対立に於て実感されるイデオロギーだ。歴史を顧みると時の弱者に味方した強者との戦ひに於て、正義の真面目は最も輝やかしく認識される。実をいへば、僕も中立といひながら内心飽きたらぬあるものがあつたが、いつまでも現実生活の打算からごまかしの正義観をふり廻してゐるやうに思はれる。その点、猶よく君のパンフレットも読んで見て考へることにする。
A: 今まで佛教徒のほとんど全部唯々「ありがたい」といつた観念的保守的信心であつた為、実社会生活問題に盲目でその為に社会主義については何等の研究もせず、一方意識的な反動運動にかどはかされて、頭から社会主義運動といへば、罵悪視して掛るなどは、全く甚しい時代錯誤であるのだ。この点おくれば、僕も阿片の麻酔がさめて、実生活の力が動いて来たのを、心からうれしく思ふてをる。
B: だいぶ得心した。この問題は何れまた例のパンフレットも読んでから、再び談議することにしよう。
(昭和六年、『新興佛教の旗の下に』四月創刊二号)
[281]
(その二)
一、経済は生活の基底
B: 先月の約束だが、一つ新興佛教が経済組織の改造を必要とする理由を聴きたいものだ。
A: よろしい。僕は今度この新運動の口火をきつてから、今まで頼みにしてゐた同志が脱退してゆく事情の殆んど凡てが、資本主義反対の第三綱領に関してである事実に見ても、経済問題が、人間生活の基質であり、従つて、人間の思想行動はそれによつて規定されがちなものであるかが、一さうハツキリしてきたところだ。だから、経済問題と遊離した単なる教化運動のごときは、一般には、文字通り観念的遊戯であつて、直接間接、現資本主義経済組織改造促進への何等かの貢献でない啓蒙運動は、完全に阿片的罪悪行為だといふ確信をより強めたところだ。そして資本主義が佛教精神に反する我利々々の機構であることは、今更あらためて言ふまでもあるまい。
B: それは、四月五日の新興佛教創立記念講演会での、聴衆のあの共鳴ぶりを見ても、いかに資本主義や既成宗団が社会から見限られてをるかが、僕にもよくわかる。だが、近頃、盛んな希望社や修養団の汗愛運動などは、教化運動として現代的価値があるものとは思はないか。
A: いづれも御用教化団体で、結果は同じであらう。反つて新味ある教化運動だけに青年男女を一時吸ひつけ、阿片の効果を多分に発揮するだらう。だが噂によると、此頃、修養団の内部でもぼつぼつ反資本主義的自覚が起りつつあるとか。また、最近、希望社では社員に月給が支払へないで社員のストライキとなり、裁判沙汰にさへなつたといふことではないか。「下世話に百日の説法も屁一つ」といふ。ふるい諺に「信心も徳の余り」といふ。うまく歌つたものではないか。徳とは利得の意味だから、この諺一つが雄弁に経済問題と既成教化団体との関係を説明してくれる。
[282]
二、全日本佛教青年連盟の時代錯誤
B: 君は、四月二日三日の全日本佛教青年会連盟の協議会で、かなり理窟をこねましたといふのは、さうした事に関してか。
A: こねたわけではないが、言ふべきことを言つたまでである。佛教精神に背反する資本主義に対する態度を論定するどころか、佛陀に帰一しようといふ当然の問題さへがゴタゴタして決定できなかつた。それどころか、全日本の佛教青年が連盟して新しく社会に進出しようといふのに、指導原理の必要如何が論議されるといふのだから、闇夜に鉄砲で問題にならなかつたのだ。
B: それは、連盟規約の第二条目的のところに、「佛教精神の自覚及其の振興を期するを目的とす」と明示してあるからではなかつたか。
A: さうした抽象的な文句で事があくなら、何にも新しく連盟などつくらなくとも、従来のままでいい筈だ。それを千数百円もかけて今度大連盟を結成したといふには、そこに新時代の要求に応ずる適切なる具体的指導原理が示されねば無意味ではないか。早い話が、佛教精神といつたところで各宗がそれぞれ歴史的に相容れぬ教養をもつてをる限り、自宗の信条に忠実であればあるほど、甲の見る佛教精神は乙丙のそれではない。たとへば、四ヶ格言をもつ日蓮宗がその佛教精神を高調して見ろ、どうして念佛その他の宗派と共同戦線が張つてゆけるか。また浄土宗が「五種雑行」を固持しても結果は同様ではないか。もし、それでも可能だといふなら、それは無恥だ、それともすでに宗旨を時代的に止揚しての上かである。いづれにしろ、連盟が一種の宗教的社交倶楽部にとどまらずして、進んで新時代的佛教運動を開始しようとするには、連盟を一貫しうる信仰上の指導原理と、それに則る社会問題解決の指導原理とを示さなくては駄目だ。
B: その位なことは、かりにも各地を代表して出た人々だから考へない筈はあるまい。
A: そこだよ。マルクスが「人間は常に自ら解決しうる問題をのみ問題とする」といつたやうに、連盟に参加して、互に手を取らうといふのだから、そこには手をとりうる一つの共通なポイント――解決し得る問題――がある筈でなければならぬ。だから僕は其の具体的なポイントを明示して新運動をしようと提案をしたのだ。
[283]
三、全日本佛青連盟への三大提案
A: 言ふまでもなく、僕等の新興佛教の三大精神を主張したのだ。それは次のやうに提案した。
(一)我等は、既成宗団の分立は佛徒和合の道に反するを認め、佛陀に帰一して佛教の新時代的闡揚を期す。
(二)我等は、現社会の苦悩は主として矛盾せる社会組織に基因するものと認め、之を改革して佛教精神に基く理想社会の建設を期す。
B: この提案も抽象的ではないか。
A: 佛教連盟の現在の情勢下に於て可能な根本綱領としてだ。
B: 随分、反対があつたといふではないか。
A: あつた。だが、真理は自明の理だ。何人が何といつても連盟可能の唯一のポイントは佛陀へ帰一する以外には発見されないから、提案の精神は大体認容されたが、時間切迫にあつて、この問題は綱領起草委員附託となつて幕はとぢた。が中外日報でもコツピドクたたいたやうに、こんなことでは無くもがなの連盟である。わかり切つた第一提案さへ査定する勇気がないのだ。第二案など実際にはそれこそ西方十万億土の空想であつたら案だ。
四、真宗の自己清算
B: 出席した代表の大半は真宗であつたさうだが、「佛陀に帰れ」と言へば、絶対他力の阿弥陀宗にとつては破産の宣告にならないか。
A: 正確に論ずればその通りだらう。この頃読売新聞に高楠博士が「佛教の根本義」と題してのせられた説明を見ても、阿弥陀信仰など完全に清算ずみで、「を」と正しく読む求道者ならば真宗も「佛陀に帰一する」ことに何の異論の出しやうもないと僕は思ふ。その「佛教の根本義」中「無神主義」の条項中に、博士は
「人間の運命は神によつて主宰さるるのではなく、全く自己主宰である。自業自得で自己の運命を開拓しつつあるのである。そこで神の審判を待つまでもなく全く自己審判である。善因善果は神の裁きによるのでなく――
[284]
――自然法である。かくて釈尊はあくまでも自己の人格の上に立脚し、その人格を向上発展して完全位に達して佛陀となつたのである。阿弥陀如来も大日如来も釈尊の理想から顕れたもので、それはどこまでも人間が完成したのであるから、その佛には創造神、主宰神、司法神の如き意味は毛頭ない。ただ佛陀は自ら自覚の究竟位に到達して、他の未覚の衆生を大慈心から自覚の究竟位に到達せしめんとする覚他の活動に終始するのである。従つて、自覚、覚他、覚行円満が佛陀の本懐である」
といつてをられるが、君も知る通り高楠博士は自他共に許す真宗の巨匠だが、これで見ると、真宗のいふ絶対他力の阿弥陀如来など、釈尊の影に過ぎないではないか。
博士も「自己の運命は自己の開拓によるので、いはゆるお救ひ下さる阿弥陀如来などありつこない」といはれるのだ。だから、他愛もなく、他力本願の阿弥陀如来などサラリとやめて、自己の人格の上に立脚し、その人格を向上発展して、解脱された佛陀に対して、全佛教徒は帰一して、この理想人格の渇仰に生活の光りを求め、責任ある努力を励むこそ現代人の得心する佛教運動ではあるまいか。
B: たしかに其の通りだ。他力本願の念佛は、丁度キリスト教の主宰神、司法神に似た説明で、明日の宗教では到底ありえないだらうが、それほどハツキリわかつてゐて、なぜ、綱領をかかげて新佛教運動がやれないだらうか。
五、十字架の覚悟
A: そこからは結局、道念の問題である。説明と実践とには何ごとによらず距離がある。その間に、因襲や情実がある。わけて経済関係等いろいろ困難な問題が堆積してゐるので、いざ断行となると口でいふほど簡単にいくものではない。それの飛躍こそは、ただ十字架をも辞せぬ革命家の止むに止まれぬ真摯な求道心に待つ外はないであらう。わけて第二の綱領のごときは、よほど思ひきつた覚悟がなくては御用宗教的伝統を革命して、大衆のための新佛教運動などは思ひもよらぬことであらう。
六、シンクレアの宗教観
B: 五日の新興佛教結成記念講演会のときは、警官が――
[285]
――ずいぶん沢山で物々しき警戒をやつたが、あれは新興佛教の第三綱領、打倒資本主義のスローガンがあつたからか。
A: その通りだ。僕が集会届のことで警察に呼び出された時にも、そんなに言つてゐた。既成教団撲滅なんかした問題にはしてゐないよ。問題とされるのは反資本主義運動で、僕等の新興佛教運動の内容も、それが唯単に既成宗教の撲滅と佛教の統一といふだけでは、数々のロボットを破壊して一つの大きなロボットを製造するも同じことだ。問題は人間を、宗団を容赦なくロボット化しつつある現代の悪魔――資本主義打倒運動でなくては新興佛教運動も実際生活にふれた宗教運動とはいへない、と僕は思ふてをる。
B: 君の言ふことも合点はされるが、本来宗教と経済運動とには、おのづから異る分野があるものではあるまいか。
A: それは一応、尤もな話だ。だが、真の意味の宗教はそんなに経済だ精神だと二分して考へるべきものではなく、全生活の理想化を要求するものだと僕は信じてをる。丁度真の恋愛がプラトニック・ラブで満足されないで、霊肉一致の境地にこそ恋愛の完結があるやうに、この事について、アプトン・シンクレアの名著『宗教信ずべき乎』の中には、
「宗教は真の意味に於ては、霊的衝動の最も根本的なものであり、熱烈な生命愛であり、生命の尊さを感ずることであり、生命の愛養助成の欲望である。その意味では思想する凡ての人間は宗教的でなければならない。その意味では、『宗教』は永遠の自己更生力であり吾々人類のまことの本性である。その意味では、私は宗教を攻撃しようなどとは毛頭思つてゐない。否、私は宗教は、その意味に於ては、決して攻撃などし得るものでないといふことを明らかにして置きたい。
併し、『宗教』といふ言葉にも今一つの意味が与へられてゐるために、吾々にはさうした正直な意味で此の言葉を使ふ喜びが与へられてゐないのである。一般の人には『宗教』といふ言葉は、魂の生長したいといふ渇望、『飢ゑ渇くが如き正義の追求』を意味するのではなくて、この渇望の歴史に現はれ、更に今日世界に行はれてゐる或種の形式を意味するのである。換言すれば神の承認権を主張する支配階級を持ち、固定し――
[286]
――た教義と『啓示』、信条と祭儀を持つた制度である。かうした制度の下では、民族の道徳的努力も児童の愛情も、青年の大望も、僧侶達の特権と商売道具にされて了つてゐるのである。此意味に於ける『宗教』は寄生虫共の収入の源であり、凡ゆる形式の圧迫と搾取との自然の味方である。」
真の「宗教」と、歪曲された所謂「宗教」との相違がハツキリ了解されはしないか。かくて、「飢ゑ渇くが如き正義を追求」する真の宗教者のたどり行く現実の道と、固定した教義と啓示、信条と祭儀とを宗教と心得てをる半不随の似而非宗教者の舞踊する観念的理想境とは、おのづから分離するのが当然である。シンクレアの次の言葉は私の今の信念をほぼそのまま表示してくれてをる。
「私は決して浅薄な唯物論者ではない。私は、吾々人類が無意味な合理主義で満足すると考へるほど皮相ではないのだ。私には、古き宗教の象徴物が人間の心から生れ出たことも分つてゐる。これは、さうしたものが人間の心のある欲求に合致してゐたからである。それと共に、私には現代の必要に一層合致した新しい宗教の象徴物が発見されることも分つてゐるのだ。若し私が、此処で古く毀れかけた建物を打毀すとしても、それは盲目的な破壊心からではなく、その代りに新しくより堅牢な建物を建てようとする建築家としてである。」
B: では、今の日蓮宗や念佛宗や真言宗などが、シンクレアの「神の承認権を主張する支配階級を持ち、固定した教義と啓示、信条と祭儀を持つた」いはゆる「一般の宗教」とよばれるやうだな。
七、寺院佛教の正体
A: まづ典型的なものであらう。見給へ、論より証拠、身延山でも、東西本願寺でも、成田の不動山でも、どこに「飢ゑ渇くが如き正義観」や、「霊的衝動の最も根本的」な生命力が「愛養助成」されつつあるか。それらの聖地が霊的衝動の最も旺盛な青年とどういふ交渉をもちつつあるか。その聖地への巡礼者は、多くは将来のない老人達や、我利の願掛け連中や、或はブルやプチブル青年の参詣以外に、明日の青年と何を約束しつつあるか。それにつけ、耳よりの話に、こんど築地本願寺では――
[287]
――二百数十万円の建築予算で鉄筋コンクリートの大伽藍を建築するといふことである。その目的が実に聞きものだ。それは、震災で大本堂を失つてからは、大きな葬式は大抵、芝の増上寺にとられたため御客取り返しの一策だといふ噂である。何と振つた葬式株式会社の営利競争ではないか。
従つて、かかる寺院佛教に指導される一般佛教徒の生活が現在どんなものであるかは説明するまでもない。「祖師は紙衣の九十年」と有難さうな顔の限りである。「塚原謫居」を偲んで感涙をながして見たところが、それは信者の日常生活にどう織込まれてをるか。
また見給へ、最近、支配階級が思想善導の一策として小学校の教員室に神棚を作らせて敬神崇祖の思想涵養を企画してをるのを。これらはシンクレアのいふ固定化した祭儀そのものだが、先生の棒給不払の村が一千ヶ村もある今日、平等と愛を生命とする神様や佛様を、さうした箱棚におさめて思想善導のために敬礼せよと指令する支配階級も支配階級だが、仰せご尤と拝命せねばならぬ先生も気毒な立場ではないか。考へて見給へ、何が故に知事や部長は月俸五百円四百円とつてゐて、小学校職員は六七十円しか貰へないであらうかを。而も勤務労働の時間の多少は正反対ではないか。
さつきも言つた高楠博士の佛教の八大主義中には外面的四主義として、無傷害主義、大慈主義、平和主義、平等主義をあげて、「佛教はこの何れをも徹底的に拡大してその最大限に説き到つた処にその特徴がある」といつてをられるが、しかし、それは過去の物語りであつて、現代どこにその実行が見られ、実行が提唱されてをるだらうか。否、それを実行せんとする社会主義を悪魔のごとく排撃しつつあるとは何といふ転倒錯誤であらうか。
我等は再び佛陀の平等生活を見ねばウソである。
八、経済機構の改造が肝要
B: すると、さうした見地から新興佛教が組織の改造を主張するのは、畢竟、「現代の必要に一層合致した新しい宗教」運動の具体的な問題だといふのか。
A: その通りである。僕は前にも言つた通り、一般的には経済関係が思想や行動を規定するものゆゑ、今の営利――
[288]
――本位の資本主義経済組織である間は、自然に非社会的な利己主義が大量生産されざるを得ないから、この機構改造が、根本的な問題だと見るのだ。
B: 前にも質問したが、どうも僕は宗教の職能は、精神運動ではないかと思はれる。
A: 其の点一理ある。だが、それに固定するところに、御用宗教の第一資格が成立し、次いで反動的説法に力仕事ができ、睡眠不足でも猶、精神が明瞭でありうることを一般的に保障するなら、僕も君の意見を承認しよう。
B: しかし、それの不可能といふことが、宗教が経済組織を改造せねばならぬといふ主張の是認とはなるまい。
A: もとよりである。佛教に従へば制度と精神とは一実体の二方面であるから、之を切り離して運動を一方的に偏すべきではない。従つて、餓餓のゆゑに力が出ない場合は文句なしに先づパンを与へるのが、てつとり早い救済で、この場合これにこした佛教精神の実行はない筈である。もとより人はパンのみして生くるものではないが、現代のごとく経済生活が窮迫して、而もその原因が明瞭になつてをる場合、その原因除去の運動が佛教精神に反するわけは毛頭ない。否、社会の全機構に対して常に佛教精神が発揚されてこそ、佛教が人間生活の救済運動となりうるのではあるまいか。
B: 併し、幾多の達人が示したごとく精神力は環境を超脱しうるものであるから、不如意の現実にあつては、環境をそのままにして法悦の生活を味ひうるその精神力の涵養こそ、むしろ必要なのではあるまいか。
A: そこが御用宗教家の説法の奥の手だ。勿論、「心頭滅却すれば火も亦自ら涼し」ではある。併し、僕は対話中屡々「一般的」にはといつてをるやうに、たしかに恒産がないと恒心もないがちなものが一般人である。君とても、今日、衣食の憂ひがないから文句を言つてをられようが、これで今日のパンに追はれる時の身を考へて見ろ、法悦の宗教だのは第二次的な問題とならざるをえまい。潮風に吹かれ、松の枝ぶりが一様であるやうに、人間も自然界の存在である限りは、一般的に環境の影響を無視して理想のみを語ることは不可能な約束におかれてをる。さればこそ、「まだ仁義あるをや」と道破する孔孟の徒も、「倉廩みちて礼節を知る」と叫んだのではないか。この客観的な人間性の上に真の佛国土建設運動はその基準を置いてかからねば永久の夢であらう。
[289]
九、経済問題が行動を規定した一例
A: 僕は新運動結成の前日、この問題について、決定的な確信を一つ与へられたといふのは例の甲府支部の脱退の事実である。
B: あれは実に僕も意外であつた。何しろ、あの支部は君が日蓮主義運動をやり出した最初から、一番力を入れてゐた支部であり、また一番有力な支部でもあつたのだが、一体、脱退の理由は何か。
A: 五日の結成式には同志が五人も上京するといふ約束さへあつたのだが、三日に配達された『佛旗』創刊号にかかげた第三綱領の反資本主義の声明がたたつたのだ。何しろあの支部はプチブル階級や、俸給生活者が多いから、資本主義反対では自分の生活が脅威されて立つて行けぬといふのが、大体の理由であつた。
B: でも、まさか資本主義賛成の人もあるまいし、若い連中には君に即時、無産政党に入党せよとまで言つた随分元気な人もあつたといふではないか。
A: 認識や言葉の上の改造は何とでもいへるものである。だが、さて、猫へ鈴をつけに行く段になると、さう認識通りには行かないのが、これも一般の人情である。
B: 十年も手を取つた信仰団体としては、あまりにも不信な仕打ちではないか。
A: 咎め立てをすれば、僕の不徳と無力が一番に咎められるべきであらう。僕は支部の態度を「不信」の二字でのみのしるに忍びぬほど、これまで同志のよせてくれた厚意の真実であつたことを今も思ふてをる。また中には脱退反対、脱退見合せの意見をもつてゐた同志もあつたらうことを信じてをる。だが、にも拘らず全支部脱退に決定したところにパン問題に対する人間の弱さと超個人的な群衆心理の動向を見ることができた。若し、こんどの運動が同志の職を奪ひ、パンの道を絶たしめるものとするならば――僕はいきなりさうとは思はれないが――一人身ならばまだしも、妻子や親兄弟があつて見れば、正義観の一本調子で直進することを期待するのは一般には無理な注文であらう。だからもしそれにも拘らず、去つた同志が自己の弱さを誤魔化して、他に理由づけるな
[290]
一〇、新興佛教の荷負ふ歴史的任務
B: では第三綱領さへ君が出さねば、親しい同志と別れなくてもすんだわけか。
A: さうであらう。だが、僕等が資本主義を肯定し、或は言葉の上でだけ之を非難してゐて、實際には從前通りに仲よく讃佛偈をうたひつつ、社會主義を高調して觀念的遊戯にふけるためには、いかに多くの無產大衆の血税を犠牲とせねばならないか。例へば、終日、日の光もささぬ地下數千尺の坑底に立つて勞働しながら、カツカツ生活費だけを與へられてをる無數の同胞は、一體いつ解放されて人間らしき生活を惠まれるのか。それに引きかへ、一握りのブルジョアーのあの贅沢な生活ぶりを見よ。これが、大衆主義、平等主義を徹底すべき佛教徒がいつまでも見逃してよい社會現象であらうか。
B: その心持ちはよくわかる。だが、そこに花は紅柳は緑、「平等即差別」とか「因果応報」とかいふ見方もされて、苦しい現實を忍容しうるが佛教の特色の一つではないのか。
A: 左様な解釈が、從來、御用宗教家によつて満喫させられた百パーセントの阿片的説法であつたのだ。しかし、さうした歪曲された説法を再吟味し、佛教精神を正當に闡揚して大衆生活の福利保障の指導原理たらしめんとすることこそ新興佛教の荷負ふ歴史的任務でなければならぬ。
(昭和六年、『新興佛教の旗の下に』五月号)
[291]
一、貧乏は前世の「因果」か
B: それでは、「因果応報」とか「差別即平等」といふ教義が、どういふ工合に歪曲されて御用宗教の役目を果してゐたのか。
A: まづ「因果応報」の方から説明しよう。佛教は前にも云つたやうに、宿命論でもなければ、創造神論や偶然論でもない。もとより因果の理法を主張するのだから、貧富の懸隔が生じたのも因果関係には相違ないが、その原因を一方だけに背負つて、あきらめ主義、忍従主義を強要する所に偏頗な御用ぶりをつとめてゐるのだ。
例へば、稼いでも稼いでも貧乏神に追はれ通しの無產大衆に対して、貧乏生活の原因をば、從來、坊主たちは何と説明したか。「それは前世の因果だ。自業自得である、資本家の罪でもなければ社會の責任でもない。だから君達は資本家や社會を呪はずに、一そう真面目に働くことだ。」彼等は尤もらしくから説明したものだ。
だが、資本主義機構に対して少しでも知識を持つ者にはこんな説明が見えすいた誤魔化しであることは、も早や、くどくどしく説明するまでもあるまい。去年の豊作地獄などは最もよい証拠で、天候もよく、汗をしぼつた耕作に惠まれたあの未曾有の大豊作が、反つて農家の生活難増大の原因となつた事実が、一体、前世の因果論で片付くものであらうか。また銀行の資金歩合でも、小身者には割高、大身者には割安で、小身者はいよいよ不利の立場に押しやられたり、勞資協力で儲けた利潤の分配は、問題にならぬ不平等な分配を強ひられたり、文句を言へば、官權の力で弾圧されるといつた風の不公平な社會的原因もあつて因果してゐる貧富の懸隔が、すべて貧乏者の前世の因果だときめつけられるものだらうか。
[292]
二、貧乏も連帯責任
A: だが、佛法の道理はさう偏頗を許してをらぬ。あきらかに佛教では、此の場合、社會的に「連帯責任」を主張するので、決して一方のみの責任とは言つてゐない。佛教に「共業所感」といふのはその事だ。連帯責任といふならば、資本家も無產大衆の貧乏生活の原因の一半を背負ふべきであり、廣く全社會の連帯責任であるから、貧乏の原因に現在、資本主義経済組織の欠陥があることを発見したならば何よりも、先づその改造は連帯責任の先決問題となつて来るべきではあるまいか。
B: 而し、それでは「自業自得」とか「三世因果」といふのは、どう考へたらいいのか。個人的責任は全然ないといふのか。
A: 個人の責任が全然ないといふわけではない。問題は責任の科し工合が、ただ個人の私生活にとどまるか、それとも、社會改造を根本と見るかの相違で、いづれ根本であるかは、個人と社會との関係に正しい認識を持たねば判らないことだ。さて「自業自得」といへば、個の個我が設定されて、それの輪廻による所業を「自業自得」とか「三世因果」とかよぶのだが、佛教の根本義が無我主義である限りは、その思想は当然、再吟味されなければならない。なぜならば個的な「自業自得」を主張すれば佛教の根本原理がくづれるし、「無我」を主張すれば「自業自得」は成立しないわけであらう。之に関して、リス・デヴィッツといふ人が、
「當時流行の意見(個人的三世因果論)は根本佛教の教理の中に論理的に融合することなしに附加されたものである。」
と説明してゐるさらだが、恐らくその通りであらう。
三、人類の真の解放と宗教
「自業自得」の思想は社會性よりも個人性が過大視された時代の過渡的思想であつたので、佛教の根本原理は依然として「無我主義」であり、「衆縁和合、一因非生」でなければならない。
[293]
從つて、個的な自業自得論は成立しない。「自業自得」を正しく解釈するならば、「自業自得」の「自」は個的自我ではなく因縁和合して出来た社會的自我――大我であるから、從つて貧乏の原因もこれは社會的に説明されなくてはならない。從つて、また、その原因除去の方法は積極的、具体的なる社會的方法によるべきが正當ではあるまいか。而も社會は連帯責任と云ふものの、支配被支配の差別がある限りは、その責任は当然より多くを支配階級の方に求むべきことも道理ではあるまいか。それを無產者の自業自得として、消極的に個人的に、あきらめさせ忍従させて、せつせと汗をしぼらせて搾取する階級の御嘉納にあづからうとは、坊主の理非転倒も甚だしい混迷ではないか。
だから自業自得は無我思想を以て再吟味され、我他彼此の差別観念から解放され、無我の真精神について、社會的に全体的に徹底した具体運動の中に解決さるべきが正當だと思ふ。わけて現代のごとき組織づけられた資本主義機構にあつて、ここに人類の真の解放があるのだ。佛とはかうしたさとりを成就して社會的に大精進する人間をいふので、その典型的人格がわが佛陀であつた。
B: うなづける。かう説明されると、いつか聞いた増上寺の管長が「勞資問題解決の根本対策は勞働者に因果の道理を納得さすことだ」と言つたといふあれなど、全く文字通りな阿片説法だね。
A: 全くだ。もしまた「自業自得」を從來の如く個人的に解して見ても、ああした説法は無慈悲千万な似而非宗教家の自己証明以外の何物でもない。なぜならば、勞働者が貧乏で困るのも前世の因果ならば、資本家が無產大衆のストライキを受けて困るも前世の因果でなければならまい。そして同じ因果ならば現在物資に窮して困つてゐる無產者を因果だと忍従せしめるよりも、有り余るブルジョアーを、その有難い因果の道理で以て、納得さして、無產大衆の要求を満足さす方が、何ほど弱者を救ふ佛の道であらうか。また効果的に見ても、現にパンに窮した大衆を説得するよりも、あり余る物資を出させるだけの方が何ほど問題解決の可能性が多いか知れないであらう。所が事実は正反対といふのだから呆れた話ではないか。
B: その通りだ。これでは、レーニンが「宗教は、一生涯、働いて苦しみ抜く人間に対しては、地上に於ける屈従と忍耐とを教へ、天国の報ひの希望を以て慰める。だが宗教は、他人の勞働によつて生活する人間に対しては、搾取者たる彼等の全存在を安々と是認し天国の祝福の入場切符を相當の値段で売渡し、かうして彼等に地上での善行を教へる。宗教は民衆のための阿片である。」と言つたのも無理からぬこととうなづける。
[294]
だがここで少しく疑問なのは、そのやうに、責任の所在が社會的になると、果して個人の努力が鈍つては来ないだらうか。
A: 現在のやうに個人主義的社會生活に馴らされてをる者の頭には、さう思はれ易いであらう。而し、實際は、利害を同じくする団体意識が徹すれば徹する程、個人の努力は一層緊張するものであることは、腹をきめて正しい団体生活をした者の何人もが実感してをることだ。尊敬すべき先覚者はいつれも自己の内部に全社會を見、社會生活の「因に自己を見た」人々で、彼等は常に社會運動をせずにおられなかつたのだ。佛陀が個我と私有とを否定して、社會恩を説かれたのもこの故であり、「人間的本質は社會的関係の絶対である」と主張した、マルクスやレーニンの努力も鈍る所か、すばらしいものではなかったか。ただ個我的要求も一般の人間性だから、自業自得もその人間性に根ざした過渡的思想には相違ないが、真理は無我主義の上に人間最高の解脱と共產共栄の生活とを永遠に示唆してゐるのだ。
四、歪曲された「差別即平等」論
A: 次には、歪められた「差別即平等」の話だが、これも、君が「花は紅、柳は緑」といつた風に、坊主たちは手の入つた説明をして社會的不合理、不義なる差別生活をそのまま肯定させようと努めてをる。
B: 而し、君もこれまでよく言つたが、七合の水を要する植木鉢には七合を、三合のには三合を与へると、どちらも過不足がないので、これが、差別即平等で、やはり差別のあるのが自然ではないのか。
A: その説明の限りに於て正しい。七合の者に五合でも不足するし、三合のものに五合では水ばて、これも困る。だから七合のには七合、三合のには三合でなければいけないが、現在社會の差別は果してさうであらうか。七人もの貧乏家族が三畳長屋で今日の飯米もなくて苦しんでをる。かと思へば、一方には夫婦暮しで大邸宅に伸び伸びとして有り余る財産を抱へて謡曲などで暇をつぶしてをる者もあらう。貧乏な老人は三等列車でゆられてをるとき、金持ちの若者は二等列車で威張つてをる。また、一日中、働き通しの勞働者は日給僅か二円かと思へば、四五時間会社へ出頭して数百円を失敬してをるブルがをる。頭のよい体力の強い子供がゐても金がなくては上級学校へ行かれない。さうかと思へば、一方には脆弱な低能児でも試験地獄がある方法で通過される。今の社會は、決して、君が今言つたやうな七合に七合、三合に三合といつた風に必要に応じて差別づけられてはゐないのだ。
[295]
B: だが、それならば、一見、金持ちの我ままのやうだが、そこには金持ちになるまでの努力があつたので、その差別には努力がむくはれた正當なる差別と見られないだらうか。
A: もし、人間社會も他の植物や動物と同じ適者生存、弱肉強食といふ自由競争の社會生活とのみ見る限りに於ては僕もこの差別生活に何の異論もいふべきではない。だが人間が人格的存在である限りに於ては、その差別相も人格的に整理された社會相でなくては人間社會の差別相ではない。例へば、前の例をとれば、二人暮しの家族に対して六合の飯米ならば、七人家内では二升一合が与へられ、列車に二等と三等とがあれば、二等は老人子供などに恵まれて三等には若者が乗るとか、一時間働くものには四円なら、六時間の者には十二円といつた風に、差別はあつても、ただ自由競争の結果としての差別をそのままに肯定しない所が、人間生活に見るべき「差別即平等」であらねばならぬ、と僕は考へるのだ。ましてや、前にも言つたやうに、貧乏が自業自得でなくして社會的なものであるとして見れば、その財力を自分一人のために勝手気ままに使用さすべきでなく、當然社會的制裁の下に、理想的に人爲的に整理しての差別相こそ、まことの人間社會の「差別即平等」といはれるのであるまいか。
それを、一方では仰々しく相互扶助だ、勞資協調だなどと叫びつつ、一方、血も涙もない自由競争の結果として生じたかかる差別相を、いかにも絶対の真理らしく「差別即平等」だなどと説法してをるのが、今の御用宗教家なのだ。だが、それは現在の優勝者の地位弁護以外に何の福音を無產大衆に与へつつあるであらうか。
君、考へても見よ、何が故に多數は、暗黒なる坑底に一生骨をくだいて金銀を採掘し、少數はその金銀を自由に装飾して一生を栄耀に享楽していいのか。それも自由競争の結果だといつて了へば、また何をか言はんやだが、「生命の支配權を握り、本能を理性的有意的な行爲によつて置き換へ、世界を意識的な秩序ある産物とすること――これが人類の仕事である」ならば、かかる不平等極まる社會相をこのままに「差別即平等」だなどと言はれるべきものではない。それは人類社會も単なる自然現象と同視した場合においてのみ可能であるが、理性と創造力とを賦与されてをる人類の社會にあつての「差別即平等」の真義は、「理性と正義と愛」とによつて意識的に秩序づけられた可及的平等の社會といふここにこそ、「差別即平等」の言葉によつて抽象されべきではあるまいか。
[296]
六、自由競争と協同調和
B: しかし、人間にも本性に競争性があるのだから、さうした理想社會は結局空想ではあるまいか。また強い秩序づければ、結果は反つて怠け者の大量生産とならないだらうか。
A: その懸念は一般に聞くことだ。だが、競争性もある代りに一方人間には調和性もハッキリ見られる。否、人間の特性こそこの調和性、社會性にあるのであつて、これが不幸にして未だ十分に涵養助長される組織生活にまで達してゐなかつたのだ。人類進化の初期時代を考へて見てもわかるが、人類は、他の動物が身に備へてをる牙とか爪とかいつた鋭利強力な武器はもつてゐなかつたが、從つて、自然の生存競争者としては、最も不利であつたにもかかはらずよく地上の支配者となつたのは何の力因であつたらうか。それこそ、理性と創造力とを有し、そして協同団結の生活者であつたからではあるまいか。もし、さうであるならば、個人的自由競争は人間社會にあつて第一義性ではなく、第一義性はやはり協同調和の社會性でなくてはならない。そして、この意識社會の中に於て始めて、個的自由も保障され確立することを意識しうる理性的存在が人間の特性であり、運命であると思はれる。
この特性は、人間の一生の生活を考へると猶よく納得されるかと思ふ。
赤ん坊から幼年時代へかけては、無邪気ではあるが我利の本能そのものである。これほど我利の本能を容赦なく振り廻す時代はないが、ところが、生活の範囲が家庭から学校へ、学校から社會へと拡大して行くに従つて、自制心が増してきて社會的になり、老境に入るに従つて愈々円熟して行く事実を見ても、人類社會の歴史も恐らく同様に、理性の発達と共に理想社會へと展開してゆくものであらうと信じられる。
しかし、現在では不幸にして、まだ本能的自由競争性の編み出した資本主義経済組織の網の中にからまつて藻掻いてをる青年時代だ。だから、経済的自由競争が否定されれば生甲斐でもなくなるやうに考へられるかも知れぬが、競争は経済上のみに限られるべきではない。否、経済的に生活が保障されてから後の競争――科学的、芸術的、道徳的等々の競争こそ人類にふさはしき真の競争時代がやつてくるのであらうが、現在では、かかる多様な人間の特性が、すべて経済競争の一路に追ひつめられて、醜くも商品化されてをるから、それが習慣性となつて、人間生活即経済生活といふ観念形態をつくり上げてをる。従つて、生活が保障されても、経済的自由競争がやれなくなれば、モヒ中毒者のモヒが切れたやうに、一向活動力がなくなるのかのやうに考へられるのであるまいか。だが、僕はさうは思へぬ。経済競争から解放されるその時こそ愈々人間生活の本舞台となつてくるのだと信じられるのだ。
[297]
たとへば筋肉勞働にしても、社會的に計画的に平等化されて見る、從來、過勞に苦しんでゐた勞農者の過勞が救済されるは勿論だが、それと同時に、從來、無聊に日を送つた社會人にも適當な勞働がふり當てられて、両者共に身心壮健な生活が惠まれてくる。ところが、社會には明日の飯米がなくて飢ゑをる國民がゴマンとあるのに、政府は四百万石からの過剰米を倉庫に積んでその処置に困つてをるといつた無慈悲不統制な資本主義社會では、働くものは夜に日に働き通さねば食つてはゆかれぬ勞働過酷の社會だから、勞働そのものまでが一般には嫌惡されてをるけれども、適當な勞働それ自体は反つて愉悦の泉でなければならぬ。だから、もし、さうした適當な勞働が一般に与へられ、計画的社會になつてくれば、何人も決して怠けたいなどとするものでなく、社會的義務といふよりも愉快なる権利として幾時間を勞働するに至るであらう。
例へば、一燈園の人々の生活を見てもわかる。彼等はただ一日の糧だけを得てそれで悦んで一日中働いてをられる。これなどは、人間は必ずしも私有財産を積み上げなくても満足して、勞働しうるといふ証拠ではないか。
七、現段階に於ける一燈園の役割
B: しかし、ああした粗末な生活が人類生活の理想だらうか。
A: もとより理想ではないと思ふ。天香さんもさうは思ふてゐないであらう。佛経にも「取相の凡夫」といふ文句があるが、ともすれば、ああした粗衣粗食の生活形態そのものを以て聖人君子の理想生活のやうに考へてをる者もあるが、僕はとらない。人間の人間らしき生活とは、ただ精神的のみの向上でなく、物質生活にも豊醇な正しい、美化されたものを要求するは決して不義ではないと思ふ。それが万人に惠まれない場合、他に忍びぬ同情心からの節約としては意味はあるが、粗衣粗食そのものが絶対の価値ではない。それは人類発展の歴史が証明するところであつて、人類の生活は断じて原始生活に復帰することでなくして、より高度の文化生活へ推進することにあるのではないか。
[298]
B: それでは一燈園のあの私有財産のない協同生活を、全社會に物質的により高度な文化形態として、実現したらいいわけだね。
A: 理想はその通りだが、しかし、あれは資本主義社會の重圧下に生れた変態的な空想社會主義の一形式で、パンに惠まれてをる高等煩悶者の救はれる道場、一――無所有の精神を体験する道場として意味はあるが、現社會の客観的情勢下に於て、この運動には社會改造の実際運動としては、もとより何の期待もかけられまい。反つて、無意識的に依然として阿片的役割をつとめることになつてをるやうに思ふ。
八、無產運動と理想社會実現
B: では、君はさうした理想社會実現の実際運動をどう考へるのか。
A: 前にもいつた通り、新興無產階級の正しく発展する政治的勢力による外、改造の道はないと考へる。
B: 合法的か非合法的か。
A: 原則として合法的でありたい。併し、必ずしも非合法が不義とは考へられない。涅槃経の疏にもこんなに説いてある。
「出家在家、法を護らんには其の元心の所為を取りて、事を棄て理を存して匡に大教を弘む、故に護持正法と言ふは、小節に拘らず故に不修威儀と言ふなり。昔の時は平にして法弘まる応に戒を持つべし。今の時は険にして法驟る応に杖を持つこと勿れ……取捨宜しきを得て一向にすべからず」
と。結局、形式に拘泥せず動機が正しい、場合によつては力による解決をやれ、と教へられてあるのだ。「一を殺して万を生かすべし」ともあるから、非合法が必ずしも罪悪ではなく、その根本態度と、場合とを省察することによつて肯定されるべきであつて、日本の過去の歴史を見れば、近くは明治維新の改革のごときが、明らかに認容してくれることではないか。
[299]
だが、もとより、願はくは合法的な犠牲の少い改革でなければならぬ。そのためには、一般社會人が一刻も速かに資本主義社會の悪弊と新興階級登場の歴史的必然性とのパツキリ認識し常識化して、その無產者運動に可及的の同情と援助を与へることによつてのみ、改造に伴ふ不可避の犠牲をより少量に終らしむるものと考へる。
九、反宗教運動と吾人の主張
B: こんど無產運動の一翼として開始されたあの反宗教運動の正体はどんなのか。
A: そのことについては昨夜も、僕は中央佛教會館で反宗教運動の高津正道氏、本莊可宗氏、今東光氏の佛教青年聯盟書記長、三輪某氏、日蓮宗の柴田一能氏等と立会演説をやらされたが、その時、高津氏の説明によれば、「正義は大衆の福利を保障するものだ、大衆の福利を阻害するものは何物も之を排撃せねばいけない、而して、宗教は大衆福利の最大障害物である資本主義の番犬として、大衆の福利を阻害するものであるが故に之を排撃せねばならぬ」といふのが、氏の社會主義観から説明した反宗教運動の主意であつた。
B: 高津氏のは秋田雨雀氏らの反宗教闘争同盟とは違ふのか。
A: 秋田氏が「讀賣新聞」に書いたところでは、「社民」の利用価値如何が問題となり、「社民」を排斥する同盟の尖鋭分子と高津氏の意見が一致しないで退席したといふことだが、昨夜、高津氏が説明したやうに、正義観から出発した反宗教運動とするならば、理論的には純粹マルクス主義とは相容れぬものがあるわけだが、當面の運動としては、宗教を阿片として排撃する点、どちらも同じことであらう。
B: では、資本主義を否定し既成宗教団を排撃する君等の新興佛教運動に対しては、どういふ態度をとるのか。やはり排撃するのか。
A: さうした一致点はあつても、反宗教運動は宗教そのものを否定するマルクス主義から出発した運動だから、勿論、彼等としては新興佛教も問題ではないのが当然であらう。否、赤色佛教として反つてより邪魔と見てをるであらう。また僕等としても、同様に資本主義や既成宗教団を否定排撃するものの、その人生観に於て、
[300]
マルクス主義と認識を異にするかぎり全的に飛び込めないのも仕方がないが、それは、反宗教運動の是非は別として、同じ運動でありながら秋田氏らと高津氏らが主張を異にする点があると、好ましからざる分離を見ねばならぬと同じことだ。従って、その是非は反宗教運動の基本原理であるマルクス主義の批判、わけて、その宗教観の批判が根本問題とならねばならない。
そのフォイエルバッハ論の中に、エンゲルスは宗教についてこんなに言ってをる。
「宗教が神なしに存在し得るものとすれば、煉金術も賢者の石なしに存在し得よう」
「自然と人間とを外にしては何物も存在しない。吾々の宗教的空想の所産たる人間以上に位する実体(即ち神、妹尾註)なるものは、吾々自身の実体が空想上に反映したるものに外ならぬ。かくて呪縛は解かれた」
マルクス主義の宗教観は、この文章にも見るごとく、結局キリスト教的創造神の謂であるが、もし、宗教がキリスト教的神の実在を本質とするものであるならば、吾もマルクスと共に宗教を否定するであらう。なぜなれば、佛教はさうした「創造神、主宰神、司法神の如き意味」のものを否認して出発したものであるからだ。而も、佛教が宗教として厳存した事実の前には、大衆搾取の既成教団は否定しえられても、進んで否定すべきであっても、宗教そのものはいきなり否定すべきものでなく、その宗教性は人生の活きた事実として、もっと慎重に批判されるべきものではあるまいか。
なぜなれば、少くとも佛教の正系に於ては、日蓮聖人も「ただ佛にならんと思ふばかりなり」といはれたやうに、完全なる生活者――佛――を理想し追求してやまない全人格的要求こそ正しき宗教性であるとして見れば、かの既成宗教に見る幾多の分派形式のごときも、すべて、この宗教性が文化発展の段階に応じて種々に想定されたものであるが故に、それらの既成宗教団は当然また時代的清算作用をうけるべきであっても、宗教性そのものの否定運動は、反って人生に対する認識不足であって、むしろ、時代にふさはしき正しき宗教を要望すべく、この意味に於て反宗教運動は正しく止揚さるべきではあるまいか。
もしそれ、宗教が大衆の福利阻害の理由で全的に否定されるならば、それも既成宗教団の限定に於て可能であって、宗教そのものの本質は断じて大衆の福利と逆行するものではない。佛陀とキリストは言ふまでもない。リンカーンの奴隷解放運動のごときは其の著しき実例であって、宗教性こそ、まことに大衆相愛の大理想とその実行の熱情性の源泉ではあるまいか。
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B: 大分わかった。この五月二十三日に、上野の自治館でやる反宗教闘争同盟の結成講演会では、君等の運動も批判されるそうだから、それを聞いた上でまた更に君に意見をききたいものだ。
A: 僕も聴きたいのだが、丁度二十三日には金沢支部大会に出席するので、残念だが行けない。君一つよく聞いておいてくれ。若し万一僕の信念に誤診があったらば、何時でも此の運動を停止するに吝ではない。日蓮聖人は申された「其の理にまけてありとも其の心ひるがへらずば天寿をもめしとれかし」と。しかしまた、「我が義国者に破られずば用ひじ」と。この信念でひたすら新興佛教運動をすすめたく思ってをる。盲信では駄目だ。だから所信は容易に枉げてはならない。
一〇、理性的宗教と釈迦牟尼佛の渇仰
B: おお其の態度こそ正しく宗教的態度そのものではないのか。理性的宗教! 人類の無限復活の動機こそ、その理性的宗教性そのものではないか。
A: かうした理性的情熱を欲する時、必然的に僕たちは人類のもっとも最高の典型、釈迦牟尼佛が渇仰されるのだ。そして、われ釈迦牟尼佛を渇仰するとき、自然に、欲してやまぬ理性的情熱はまた一層に燃えてくるのだ。
かくして理性は静かに問題を批判し、情熱は死を賭して、も見きわめた理想実現に直進せしめるのだ。経に「一心に佛を見奉らんと欲して、自ら身命を惜まず」といひ、或は「其の心恋慕するに因って乃ち出でて為めに法を説く」と説かれてあるのも、ここらの宗教的体験の告白に外ならぬであらうが、ともあれ、かくして、僕等の新興佛教運動は釈迦牟尼佛の人格渇仰の中に、その生活の一切を統一してゆく宗教運動なのである。
B: 君の「新興佛教への転身」の気持ちは、ほぼ了解できた。
A: それでは、この話は一先づ打ちきりとしてまたの会談を約束しよう。
(昭和六年、『新興佛教の旗の下に』六月号)
