妹尾義郎、〈仏教と平和運動〉

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Original publication:

妹尾義郎「仏教と平和運動」『国民仏教聖典』秀文閣書房、1934年(昭和9年).

Seno’o Girō. “Bukkyō to heiwa undō” 仏教と平和運動 [“Buddhism and the Peace Movement”]. Kokumin Bukkyō seiten 国民仏教聖典. Tokyo: Shūbunkaku Shobō, 1934.

Source text:

妹尾義郎「仏教と平和運動」稲垣真美編『妹尾義郎宗教論集』東京:大蔵出版、1975年、389–392頁.

Seno’o Girō. “Bukkyō to heiwa undō” 仏教と平和運動. In Seno’o Girō shūkyō ronshū 妹尾義郎宗教論集, ed. Inagaki Masami, 389–392. Tokyo: Daizō Shuppan, 1975.

English translation

仏教と平和運動

暗澹たる暴風雨と狂奔する怒濤が漸く静まって、明朗平穏な大凪の航海が恵まれた朝の喜びは全人類共同のない悦びである。平和へ! 平和の光明は全人類共同の希望であり、人生創造の航路を導く北極星であらねばならぬ。

もとより人類の歴史はあまりにも多く闘争の斑痕で汚されてはをる。悠久五千年の人類史中、統計によれば、暗黒の闘争史十三年に対して平和の日線は僅かに一年といふ比例を刻んだ悲しい史実ではあるが、しかしながら、それにも拘らず平和は過去に於ても現在に於ても又将来に於ても、依然として全人類を導く雲の柱であり文化の彼岸に通ずる白道である。目覚めた幾多の先輩たちは、それゆゑにこそ自ら聖愛の十字架を背ふて、理想する平和境への不朽の路標とはなってくれたのである。

仏陀、キリスト、等々は平和運動への典型的先覚だが、この外あらゆる殉教者の血涙は一滴として平和運動への犠牲でないものはなかった。現代、全世界に渦まく一見好ましからざる階級闘争の如きも、もしハイゲートの地下静かにマルクスの真意をたたけば、彼等の全努力も亦全人類救済を希願したる平和の社会建設への科学的社会運動であること勿論である。

もとより、闘争或は戦争はしかく簡単に絶滅しうるものではない。又絶対的に罪悪視されるべきものでもない。否、人生には屡々剣の解決を必要とする場合があるが、それは実に平和保障のための止むをえざる場合に限られるべき権道であって、決して人生の常道ではない。小は一家の問題から大は国際関係に及んで、闘争或は戦争が、いかに人生を不安、焦燥、恐怖、絶望にみちびき経済或は文化の破滅をもたらす忌避すべき行動であるかは贅言の要はない。戦争は、戦争の残虐性に心から憎悪を感ずる人類的良心のみに許されるべき最後的行動であって、平和運動こそ全人類永遠の共同工作でなければならぬ。

凡そ、どの宗教でも平和を高調せぬ宗教はない。就中、平和の宗教は仏教に於てその極点を見出しうるやうである。「衆の離轢するを見れば能く和合せしめよ」と戒められた仏陀の和平精神は、七千巻の大蔵経典、仏門の全面に流露してをる。現在分立せる十三宗五十六派の法幢もその紋様こそ異れ、一つに平和高調の宗是に外ならない。

伝教の叡山に於ける「円頓戒壇」の建立も、弘法の高野に描いた「金胎の曼荼羅」も、或は法然親鸞の「倶会一処」の理想も、道元の「即心是仏」も日蓮の「皆帰妙法」もそれは思弁して、現代宗派的暗闘の武器に堕したりとはいへ、その立宗の精神は明かに仏教の有する「和」の思想の時代的高揚でないものはなかった。仏教のかかる平和思想は、仏教日本の生みの親である聖徳太子の有名な十七憲法の劈頭に早くもその精彩が発揮されてをる。

「和を以て貴しと為す」 「篤く三宝を敬せよ」――其れ三宝に帰せざれば何を以て枉れるを直さん――

等々これら一連の文句の如きは、仏教の平和思想を物語る不朽の金文字でなければならぬ。

では、仏教の平和思想の根底は一対何か?

仏教の信仰は「帰依三宝」の形式を最もよしとする。今この「三宝」について平和思想を求めるとせう。仏宝としての仏陀の人格とその一生がいかに平和の典型であったかは語るべき事実である。また「法宝」は、後で説明する如くこれまた他宗教の追随を許さぬ条理正しき平和の仏教であって、この仏教の実践形態である「僧宝」こそは仏教の平和運動を高調するに最も適切な軌範であらねばならぬ。

「僧」即ち「僧伽」とは衆団とか和合とかの意味である。今でこそ一人でも二人でも僧生活は許されてをるが、厳密には「僧伽」は四人以上の共同生活を必要としたのである。「僧伽」の同人は居室を同じうし、乞食を同じうし、分配を平等にし、苦楽を分ち、互譲して諍をたち、和合してひたすら真理の実践にいそしんだ団体であった。ここに「帰依僧宝」の意識は平和運動の最も具体的な軌範として光ってをる。仏陀は「五逆罪」の一つに破和合の罪を加へてをられるが、平和破壊の言動は一切罪悪の根源でなければならぬからである。

然らば、「法宝」は平和運動に対して如何なる教義を示してをるか。仏教は「法宝」として「真如」「縁起」或は「無我」等々の世界観をもってをる。「真如」は諸現象の根本を平等一如と見るところに平和運動への示唆をもつ。また「縁起」とは一切の孤立性・絶対性を否定して相関的に成立して発展し消滅する世界観であるから、独善も排他も許さない。個人と社会、国家と世界等すべて一脈一体の生命体として強く共同和合への努力を叫ぶのである。「無我」また然りだ。「我」の否定とはかかる「縁起」的関係を無視する迷妄独断の開眼であって、無我生活とはまさしく共同社会的平和運動の意味でなければならぬ。

仏陀が自ら「僧伽」の一員となって、早くより「四方共有」の思想を提唱して共同社会の建設に努力されたのもこの為である。又「四性平等」の巨弾を放って当時の階級社会の否定運動を試みられたのもこの為であったのだ。

かかる関係的世界観である「無我」「縁起」の認識は、更に生かされてをる各自の生活反省となり、感謝と奉仕の思想は油然として湧き、ここに仏教独特の「恩」の思想は生れて大乗仏教を大成し、「事々無礙法界」の大哲学も創作されれば「願作仏、即度衆生」の菩薩精神の結晶としては法華経、大無量寿経等々の大文章も創作されて仏教の平和思想はいかんなく高揚されたのである。

かの「不殺生戒」の如きもかかる平和思想の一表現であって、不殺生戒は人間諸種族の平等と和合の運動に止まらず、恩の観念はあらゆる生命体の生活権平等の認識と融合して、よく生物愛護の運動となり、これが徹底のためには「不食肉戒」さえも設定せられるに至った如き、よしかかる戒律は現在実行不可能だといふも、いかに仏教精神が平和愛好のそれであるかを証明して余りあるであらう。

かくは言ふものの、仏教にも剣の教義は厳として存在する。かの焔々たる劫火の中に剣を案じて屹立する不動明王の如きは、仏教の有する剣の教義の典型的象徴である。剣の仏教は涅槃経、仁王経、大薩遮経等々にいくらでも挙げることができるが、しかし乍ら剣の教義はひとり一殺多生大衆解放の目的に於てのみ認容されるは、特に仏教に於てさうであって、これまた思想の逆説的教義であらねばならぬ。

観じ来れば、平和運動は仏教徒に課せられた世界的使命である。翻って、現代社会を正視すれば、まさに末法の爛熟、弱肉強食の修羅の世界そっくりであるが、かかる現代、仏教徒はいかに平和運動を実践すべきであらうか。その中心目標は何におかれるべきであらうか。それは従来の如き平和と愛の観念的提唱で事足るものであらうか。もし現代、力の制裁を要すれば一殺多生の利剣は何人の上に、或はいかなる社会現象、いかなる国際関係の上に下されるべきであらうか?

之を要するに、あらゆる不和と闘争は我執生活の必然的産物である。我執生活は宇宙の関係的真理をわきまえぬ迷妄の表現である。従って仏教のもつ「縁起」の思想、「無我」の実践こそ、あらゆる我執、絶対主義を否定する批判の剣であり愛の摂取であって、全平和運動の根本綱領でなければならぬ。

(昭和九年『国民仏教聖典』)