市川白弦、「共産主義思想の展開と仏教」
市川白弦 (1949). 「共産主義思想の展開と仏教」 [Buddhism and the Development of Communist Thought]. (English translation here.)
Text
一
共産主義思想の展開と仏教、これが筆者にわりあてられた分野であるが、これは多少当惑させられる課題である。なぜというに貧しいひとびと、職をうしなったひとびとをかなしみ、戦争の危険に心をいためることは何か破廉恥なことであり、これらの問題をつきつめて研究することはひとの犯罪であるかのように考えられているこの際の国の実情だからである。したがってこれにかかげられた題目にたいして教団のひとびとが期待するところは、おそらく共産主義の欠陥は何んであるか、仏教からそれをどのように反撃したらよいかという点だと考えられるからである。そしてもし筆者がこうした要望にこたえて即座にまたあの「反共者必携」をものすることをくわだてるならば、容易に称讃をかち得ることができるかもしれないが、それでは内心にとがめられるからである。そこで筆者は多少読者の期待にそむくことを覚悟しながら、仏教者が共産主義――共産主義とよばれるものは数多いがここではマルキシズムに限定しよう――に対決するための前
提条件について考えてみよう。
共産主義はプロレタリアートの解放もしくは商品的世界からの人間の解放という実践を使命とし、したがってその実践を通して具体的にみずからを形成する思想である。それゆえ共産主義の最大の重点は、それが「できあがった思想」として完璧であるかどうかということではなくて、それによってプロレタリアートが事実上解放せられるかどうかという点にある。したがってもしひとが共産主義を批評しようとするならば、手をこまねいてどこかで完全無欠な解放思想ができあがるのを待つといった態度において共産主義の欠陥を云々するというのではなく、みずから進んで人民解放のための思想をうち立てそれによってなんらかの実践にふみだしているのでなければ、真実の説得力をもつことができないばかりでなく、むしろ反動的な役割をはたすことになるであろう。
現代にとってもっとも大きな課題は貧困と戦争の問題である。しかもこの二つは資本主義社会体制という共通の母胎から生まれる双生児である。共産主義はこの二つの世界史的課題――国内において貧困、国際において戦争――にたいする画期的な解決策をもって、われわれに態度決定をせまっている。そこで共産主義を批評しようとするならば、それにさきだって反省しなければならぬことがある。それは、自分は現代社会から貧困と戦争の根本原因をとりのぞくことの必要をどの程度切実に自覚しているのか、その自覚にもとづいて現在どのような理論と実践とを展開しているのか、ということである。
みずから省みてこの自覚が切実であり、それにともなって実践がなされているならば、少なくとも批判者としての第一条件をそなえているということができる。これに反して、もしもひとが人民大衆の失業と貧困にたいする切実な共感をもつことなく、ただ漫然と「われわれは仏教者の立場から共産主義をいかに批判すべきか」などと考えたりするならば、それこそ仏教者にふさわしからぬ傲慢であるといわねばならぬ。共産主
義者たちのあの熱烈な、ときには狂信的でさえもある同志獲得のための実践にくらべて、それに劣らぬ熱意を自分はいまどのような形において展開しているのか、仏教青年会は青年共産同盟に対抗しうるほどの情熱を内にたたえているかどうか、もしそれに欠けるとするならばその根本原因はどこにあるのか、ということについて真剣な反省がなされているであろうか。手をこまねいて、共産主義が否定し得ない仏教の真理は何であるか、仏教からながめた共産主義の欠陥は何々であるか、といった諸問題を手みじかに会得して、明日の説教に引用しようというのであるならば、そのような了見にたいして、われわれは何をかたることができるであろうか。
二
共産主義を批評しようとするものは、共産主義がその理論と実践のもっとも大きな関心の対象とするところの貧困と戦争の問題にかんして、共産主義にかわる効果的な理論と実践とをもつべきであり、あるいは少なくともそれを確立するための行動をおしすすめていかなければならぬということが、批評者としての第一条件であった。しかしそれはあまりに注文高い条件であるといわれるならば、しりぞいてつぎのようにいいかえよう。
かりに仏教者が同胞の貧困や戦争の危険についてはさほど関心をもたず、それらのことは人生の枝葉末節であり、むしろ「よろずそらごと」の世界のできごとであると考えているとしよう。それにもかかわらず、いなそれゆえに共産主義を批評しようというのであるならば、つぎの反省がなされなくてはならぬ。すなわち、自分ははたしてわが一族の生活水準の保持もしくは向上をねがったことはないのか、そしてまた共産主義者たちのそれに匹敵する覚悟と熱意とをもって大衆の霊性的教化にのりだしているかどうか、ということ
である。みずから省みてこの実践に邁進していることを公言することができるならば、そこに批判者としての資格を一応みとめてもよいであろう。
しかしながらこれだけの条件もなおきびしすぎるというのであれば、もういちどしりぞいてつぎのようにいおう。
貧困や戦争の問題にもさほど関心をもたず、宗教的信念に燃えているのでもない仏教者があるとしよう。このひとびとが共産主義を批評しようというのであるならば、まずつぎのことを反省しなければならぬ。自分は共産主義にかんする公正な報道を得るようにつとめているかどうか、つぎにマルクスなりレーニンの著述についてどれほどの理解をもっているかということである。そしてこれが共産主義批判者としてそなえていなくてはならぬ最低限の資格である。
ここにひとりの仏教者があるとしよう。かれは第一に貧困や戦争の問題についてさほど関心をもたず、第二に脱俗的実践においてもさほど純一ではなく、第三に共産主義の理解においてもほとんど無知にひとしいとしよう。しかもこのような仏教者が共産主義批判者としての「自信」をもっていたとするならば、そしてかれがマルキシズムの宗教批判にたいして、「かれらは宗教の何たるかを解しないからである」と公言したとするならば、われわれはこの仏教者の「自信」をどのように診断すべきであろうか。
最近こんな話をきいた。ある禅寺へ青年がやってきて、「一度御足労をねがって、ぜひ御高説を拝聴したい」とのことであった。そこで青年教化の機会はこの時というわけで住職が出向いたのであるが、講話のあとで質問責めにあい、さんざん問いつめられて応答ができなくなり、はじめの元気はどこへやら、まったく面目をつぶしてかえってきた。その和尚さん、知人に述懐していわく、「今後はぜったいに『御高説拝聴』に応ずるものではない」と。「御高説拝聴」を申し出た青年たちは、その町の共産党細胞の連中であった。
共産党員のなかには、人物の点からも教養の点からも随分いかがわしいものもあるが、しかしなかには相当の人材がいるのである。そうしたひとびとが計画して、地方の寺々へ「御高説拝聴」を申し出たとしたならば、住職たちはどうするであろうか。
「われらいかに生くべきか」「われら何をなすべきか」これがこんにちのまじめな青年たちの課題である。
そしてこの課題はこんにちの思想問題から切りはなしては存在しないのである。こんにちの仏教者はたしてこの切実な人間問題にたいする指導者としての資格をもっているであろうか。真実の宗教は口説の宗教ではない、実践の宗教である、ただ黙々として著衣喫飯を行じておればよいというのであろうか。そして「御高説拝聴」の申し出にたいして、聾啞者のごとく振る舞っていることが、実践の宗教の「実践」なのであろうか。
真実の教化は以身説法であるといわれる。しかしながら、ここで「身」というのは人間的な身であって禽獣的な身ではない。猫のからだと人間のからだとの本質的なちがいは、足の数や毛並にあるのではない。プラトンは人間を定義して「扁平な爪をもった二本脚の動物」といったとかつたえられるが、人間のからだとけだもののからだとの相違は、本質的にはそういうところにあるのではない。内側に勝義における自覚があるかないか、べつの言葉でいえば「思想」があるかないかである。「ひとは考える葦である」とパスカルはいった。内に思想的自覚をもち、この自覚において行動するもの、これが本当の意味における「身体」なのである。身体が思想的自覚の形象化であるがゆえに、それ自身「説法」のはたらきをもちうるのである。そして思想的自覚がつねに現代的なものであるときにだけ、その身体は真に生きているのである。こんにち明治時代の思想的感覚しかもたないような身体は「生ける屍」にすぎず、以身説法の資格をもたないはずである。
思想はつねに固定し停滞する傾向をもっている。「ゆらぐ現象として漂っているものを、持久する思惟でつなぎとめて行く」(ゲーテ「ファウスト」)ものが思想であり、この定着性が硬化する傾きをもつからである。
ところが歴史の基礎構造はたえず変動し展開している。そこで頭脳の論理と歴史の論理とのあいだにずれが出てくる。このずれは歴史の大いなる転換期にはいよいよ目立ってくる。諸方に人格と思想との分裂が発生するのはこの時である。そしてこんにちがまさにその時代にあたっている。いわゆる「人格者」の考えるところ説くところが、世界史の動向にくらく時代錯誤となり、したがって当事者の誠意と熱意とにかかわらずその効果があがらず、「発して節に中る」ところがない。
「人格と思想との分裂」その意味における人格の頽廃は、たんに思想そのものの固定性に起因するばかりではない。それは当事者の知的惰性ないし怠慢に、そして一層根本的にはかれの社会的存在にからまる打算的意識に由来するからである。これがまさに「業」と呼ばれるもののひとつであり、それの硬直性は革新的な思想との対決において暴力的な情熱をあらわす。この情熱の特色は相手の主張を聴こうとするゆとりをもたぬこと、したがって自己反省のしなやかさをもたぬこと、それゆえにこちらの暴力性が相手の反発を挑発していることを自覚しないで、相手の反発を暴力として意識するという錯覚にある。それはちょうど中世の宗教裁判が、異安心にたいするあの残忍な弾圧と迫害とを神への忠誠と考えて、すこしも暴力と考えなかったのとおなじである。相手の基本的人権にたいする侵害は暴力ではなく、そのような侵害にたいする相手の反発は暴力だと考えられるのである。宗教裁判の倒錯がまさにそれであった。このような倒錯のいちばんありふれた例証は、すべての反共産主義者たちが自分の利益の侵害にたいしてはなはだ過敏であり、自分にたいする差別待遇にかんするかぎりにおいては過激な平等論者である、という事実である。精神病理学において「自我狂」と呼ばれる錯乱に該当する。仏教者をふくめて国民の大半
がこのような錯乱症の患者であることを知らぬ点にあるといわれるが、おなじようにこれらの錯乱者はこの倒錯こそ思想の健全を証明するものだと考えている。そしてこのひとびとは言う、共産主義は「悪平等」であると。「悪平等」というのは一部の特権者をのぞいてすべてのものにおなじ国民服を着せ、おなじ豆粕をたべさせ、「一億一心」に切りそろえるといったような統制を意味する。さまざまな共産主義思想の共通目標が、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」差別的な社会の建設であることは、社会主義思想のイロハである。このような入門的常識さえも持ちあわせないのが多くの批判者の実情であり、したがってみずからは三千年前の仏説を金科玉条と考えながら、マルキシストをマルクスの盲信者と批評したり、ソビエト・ロシアを共産主義の社会と考えたりするのは、何の不思議でもないであろう。
これらの批判者はまずつぎの常識をそなえなくてはならぬ。すなわち、コペルニクスといえどもおそらく青年時代は天動説の信奉者であったということ、それとおなじく徳田球一は生まれた途端に「唯物弁証法は……」といったわけではなく、野坂参三もまた「階級闘争は……」とさけびながら母の胎内から出たのではない、ということである。このことはきわめて重要であり、ほとんどすべての混乱がこのことにかんする無知に起因している。こんにちの仏教者たちが共産主義にたいしてもちだす疑問や批評は、その大半が共産主義者が共産主義に転ずる以前にいだいていた思想とおなじ起源のものである。「お前は母の胎内においてすでにマルキシストであった」などと批評されては、共産主義者も面喰うほかはあるまい。唯物論はまちがっている、物心一如でなくてはならぬと指摘すれば、共産主義者も自己のあやまりに気づいて仏教信者になるなどと考えたならばたいへんな勘違いである。仏教によって階級社会が補強されたことはあっても克服されたことがなかったことは歴史がしめすとおりであり、現実が証明するところである。共産主義の哲学は階級社会変革の哲学であって、階級社会観照の哲学ではない。それは実践のための理論であって、観照
のための理論ではない。「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花ざかり」とか「法、法位に住して世間の相、常住」といったような高踏的達観に安住する哲学ではない。まして三世因果説によって貧しきものに忍従をおしえ富めるものに慈善をすすめる哲学ではない。無産者が要求するものは基本的人権の実質的な尊重であって、有産者の食卓から投げあたえられるパン屑ではないからである。慈善や布施ではなくて、そのような「善行」「美談」を必要とする社会の仕組をあらためることだからである。(悲田院、施薬院的な布施行、仏教的社会事業を必要とするような社会を無くすることだからである。)「大道すたれて仁義あり」ということばがあるが、この老子的な語法をかりるならば、仁義を不要とするような大道の世界をうち建てることだからである。「汝のもてる物を売りて、これを貧しき者にほどこせ」とキリストは教えたが、キリストの時代ならばともかく、こんにちこのような布施行を宗教倫理の根幹とするならば、それはこのような布施行を必要とする階級社会の存在を肯定し、事実においてこの社会の存続を擁護することにほかならない。「親切が不親切になる」というのはこのことである。主観的には慈愛であるものが客観的には冷酷であり、主観的には精進であるものが客観的には怠慢にほかならない。俯仰天地に愧じなければそれでいいのではない、動機説の欠陥についてはすでに倫理学の常識であるが、これまでの仏教倫理はすべて動機説の欠陥をふくんでいる。「維摩経」のいわゆる「其の心浄きにしたがって仏土浄し」という思想は、ほとんど仏教全般に通ずる社会倫理であるが、同時にそれは個人的ユートピアニズムの観念性を典型的に示している。このように観念的心境的であるということは、社会の仕組みを変えることよりも心の持ちかたを変えることに重点をおくことであり、したがって人民大衆に「説教」することにはかならず、そこで具体的現実的な社会機構をその構造と性格と法則において批判するかわりに、貧しきもの虐げられたるものおよびそれらを根本的に解放しようとする社会的実践をも含めて、ただ無差別に「よろずそらごと」と批判することであり、かくして人民大衆
をして社会悪をとりのぞくために協力させるかわりに「無明的なるもの」「欲望的人間」の浄化に専念させ、これこそ真に徹底した「プロレタリアートの倫理」であると宣言し、この倫理によって浄化された個人が一人一人集まって美しき理想社会がつくられるのだという太古からのはかなき夢をつづることである。観念的であることが反動的であることと同一視されるゆえんがここにある。それは結果においてこんにちの社会悪と社会悲劇の根本原因である社会の搾取機構を是認することになるからである。「自分は決してそういうつもりはない」という弁明は、もっぱら動機説が唯一の真理である世界においてのみ通用する倫理であることを知らねばならぬ。汝の実践をもって示し、実践の結果において証明せよ、である。
三
そこで仏教者が共産主義に対決しようとするならば、まず反省し実践しなければならぬことを、もういちど想起しよう。
(1) 自分は不幸であるよりも幸福でありたいとねがっているかどうか。自分が差別的な待遇をうけた場合こころよく感ずるかどうか。
(2) 他人の不幸にたいして思いやりがあるかどうか。他人が不当な取り扱いをうけている場合に同情する心があるかどうか。個々の貧困者に同情するように無産者全体にたいして苦痛をわかつ心持があるかどうか。
(3) 自分の国がふたたび戦争の渦中にまきこまれる危険にたいして、どの程度の反発心をもっているか。
(4) 感じたこと考えたことを実践する熱意と一貫性があるかどうか。
(5) 以上四項目の反省において、もしも自分が自分ひとりの幸福ばかりでなく他人の幸福をもねがうもので
あり、自分にたいする差別的待遇のみならず、他人がうけている社会的不遇にたいしてもいきどおりを感じ、個々の貧困者のみならず無産階級全般と苦痛の共同体的自覚をもち、さしせまる戦争の危険にたいして強い反発をいだき、そしてこの感じたこと考えたことを実行にうつす熱意があるとすれば、こんにちの資本主義社会がどのようにして形成せられたか、これを支持する原理と構造はどのようなものであるか、搾取、貧困、失業、戦争の根本原因は何であるか、それはどうして排除し得るのか、という問題を何よりもまず仏教者みずからの課題とし、この課題の現実的な解決の原理と方法を探究し、そしてその原理と方法がマルキシズムの原理方法とどのような違いと繋がりをもつかということを明らかにしなければならぬ。
しかるにこのような反省と努力をすこしもこころみることなく、社会にどれほどおびただしい貧困と失業があっても、どれだけ多くの浮浪する青少年、就学しない子供たちがあっても、そして戦争の危険がますます切迫しても、それらは昔からどこにでもある世のならいとして何の関心も持たず、ただ自分の一家さえどうにか安穏に暮らせたならば結構なことであり、自家の飯を食って他家の事にかかわりあうのは賢明でないと考えている「仏教者」があるとしたならば、そしてこのような仏教者たちが口では慈悲を説きながら、貧困と戦争の重圧を同胞からとりのけようと努力するひとびとをゆびさして、「かれは赤だ」「破廉恥漢である」「かれを追放せよ」とさけんだとしたならば、われわれはそのような「慈愛」の行者、「暴力排撃」の使徒にたいして、何と挨拶したものであろうか。あなたがたこそ真実の仏教者であり護法の士である、と挨拶すべきであろうか。破廉恥とはどういうことであろうか。自分さえ安楽で栄誉にありつけたならそれでよろしい、自分のすきなようにやってゆけたならそれでよろしい、真理とか学問とかそのようなものに用事はない、時勢が変わったらその時に善処すれば事足りるという態度こそ、仏教者として
健全な愧ずかしからぬ態度であるというのであろうか。
四
しかしながらこのような大多数の仏教者とは別に、現代の真摯な青年たちとともに、「われら何をなすべきか」という問題に取り組んでいる真剣な少数の仏教者があることをわれわれは知っている。われわれがかぎりない敬意をおくり、その協力と支援をもとめようとするのは、この少数のひとびとにたいしてである。筆者はこのひとびとにたいして、仏教と共産主義とにかんする私見を覚え書風にかきとどめて批評をうけたいとおもうのである。
(1) 仏教教団について
仏教教団が内部からみずからを改革し若返るという可能性はないと思われる。したがってこれについていうことはない。
(2) 仏教学について
これまでの仏教学を解体し御破算にすることである。時間表のなかの宗乗学、余乗学の部分だけが仏教学を学ぶ時間であって、社会学や経済学や哲学などは仏教とはちがった世俗の学問であるというような間違った学びかたを清算し、どの学を学ぶことも「道」を学ぶことであるというような学びかたの根本的体系的な原理と方法とを確立することが必要である。この原理方法を根源的に統一するものは、かりにこれまでの仏教の語法をかりるならば、「自性清浄心」の自覚である。一切の教学的葛藤を解体しても、これだけは原理的なものとしてみとめざるをえないと考えられる。もとよりわれわれは「真理」を探求しているのであって、その真理がぜひとも「仏教的な」ものでなくてはならぬというのではない。
そしてこのような探究の態度こそ、深い意味におけるヒューマニズムの探究態度であると考えられる。この探究を通じて、社会革命の道と精神革命の道とが総合せられるような論理と倫理とがうち立てられなければならぬ。ありきたりの仏教改革的な考えかた、すなわち仏教の現代的解釈とか、仏教の現代的布教とか、仏教の社会化ないし大衆化といったような一時しのぎの対策に重点を置くべきではない。そのような対策に終始するかぎり、せいぜい古き酒を新しき皮袋に盛るにすぎず、三千年来の便乗主義を一歩も出ないことになるであろう。仏教学者が仏教学を取り扱うことをやめ、仏教学をいちど素人の手に移さなくては、新しいものは生まれてこない。そうでなければ仏教学者が仏教学をすてて他の学問の世界を遍歴してこなければならぬ。仏教学のゆきづまりはそこまできているのである。
(3) マルキシズムについて
マルクスが資本主義社会の分析、商品の分析をこころざすにいたったそもそもの原因は何であるか。動機中の最初の根本動機は何であるかをあきらかにし、このものを自覚的にとりあげ体系的に位置づけることによって、人民解放の倫理を確立しなくてはならぬ。マルキシストの振る舞いがとかく毛嫌いせられたり、「主体性」の論議がいくたび繰り返されてもどこか行方不明なところがあったり、「愛される共産党」への要求が繰り返されたり、革命の功労者が相ついで血の粛清をうけたり、過剰の独裁がおこなわれたりするのは、内外さまざまな原因によるものであろうが、その根本原因はプロレタリア・ヒューマニズム――それは無明的人間の克服を主眼とする柳田博士のいわゆる「プロレタリアの倫理」ではない。――の粗雑未熟にあると考えられる。たえず「疎外された人間性の恢復」について語りながら、人間の本性について思索することを観念的ブルジョア的だと考えるところに、マルキシズムのかたくなな偏狭があり、唯物論者の硬直性がある。共産主義がゆたかなヒューマニティをとりもどし、無益な犠牲
と強権性からみずからを解放する道は、人間の本性の自覚をその思想体系の基礎に位置づけ、弁証法の詭弁的全体性をはなれるところにある。弁証法の批判については、小笠原秀実氏「社会思想要論」(京都、学林社)から学ぶところが多いであろう。
われわれはしかしながら人間の本性もしくは人間の本来的なありかたといったものを、なにゆえ体系の原始ないし基礎に位置づけねばならぬであろうか。その基本的な理由のひとつを見出すために、とりあえずつぎの主張を手がかりとしよう。
なるほど唯物論者を駆って実践におもむかしめる「理想」は未だどこにもない。だが……それは現に存在する矛盾の中から、それを止揚すべき方向として、或いは、それが止揚されたときの形態として、割り出されてくる。それへの志向の情熱の源泉は、現在の矛盾の中での苦悩であり、それからの脱却の意欲である。(梅本克己「唯物論的立場と観念論的立場」、「思索」七)
ここにしめされている「現在の矛盾の中での苦悩」と「それからの脱却の意欲」とは、どうして人間にあらわれたのか、それらの可能根拠はいったい何であろうか。「矛盾の中での苦悩」を生みだすものは、じつはこの「矛盾」であり、矛盾とはこのばあい主体と環境との適合調和の破綻にほかならない。どうして破綻したのか、その原因についてはあとから種々の認識が成り立つであろうが、当座の自覚としては「忽然」というほかはない。忽然の破綻において、一方には自己保存の欲求があらわれ、他方には同類共感による相互扶助の意識が発生する。前のものはそれ自身かならずしも不健全ではなく、むしろこのものがあらゆる生物をしてその種を存続させたひとつの原動力であり、相互扶助の活動の基本を提供するゆえんのものであるが、それの排他的自己中心性の一面をクローズ・アップすることによって、いわゆる性悪説がなりたつのであり、これにたいして後のものをとりあげることによって性善説が成立する。破綻以前は善悪いまだ分かれ
ぬ美的世界であり、苦楽相交わることのない天衣無縫の爽明であり、人間の本性が本性のままにあるべき世界である。これをかりに「自性清浄心」という。「心」というのはたんなる心ではなく、基礎経験というほどの意味である。これはけっして少数の卓越した霊性的存在者にのみあらわれるといったものではなく、もとよりマルキシストといえども例外ではなく、あらゆる経験の基礎として凡聖不分であり、観念論と唯物論の此岸である。
このような本性に随順した純一調和の喪失において苦痛が自覚せられ、苦痛の意識において矛盾が認知せられ、それからの脱却の意欲――うしなわれた調和を恢復しようとする欲求があらわれるのである。このような基礎経験の実在を承認し、これを立論の基底とすることによって、われわれの思想は体系上の基礎をもつにいたるであろう。かの貧しきひとびと、虐げられたるひとびとへの等質共感が生まれ、社会機構変革の根本動機が成立し、そのための科学的認識が形成せられるのもこの基礎経験(自性清浄心)からである。知性の論理と心情の論理、頭脳と心臓との根源的な統一が見出されるのもこの基盤においてである。このものを基盤とすることによって真に健全なヒューマニズム、社会変革の基礎原理を提示するヒューマニズム、こんにちのことばでいえばプロレタリア・ヒューマニズムが形成せられるであろう。このような人間の本来的なありかたを立論の足場とするならば、われわれの体系が「唯物論」の名にふさわしいかどうか、これがのこされた問題である。そのような足場もまた物質原子の所産であり、蛋白質の活動にほかならぬというならば、それは立場を混同するものである。いわゆる自性清浄心からどうして社会変革の原理が形成せられるかといった問題については、機会をあらためて論究せられるであろう。
Source Note
「共産主義思想の展開と仏教」 (Kyōsanshugi shisō no tenkai to Bukkyō [Buddhism and the Development of Communist Thought]) is an essay by Ichikawa Hakugen 市川白弦 (1902–1986) concerning Buddhist criticism of communism, the social causes of poverty and war, religious ethics, and the reconstruction of Buddhist studies. The essay calls for a dialogue between social and spiritual revolution and considers 自性清浄心 (jishō shōjōshin, intrinsically pure mind) as a foundation for human solidarity and social transformation.
This transcription follows Ichikawa Hakugen, 「共産主義思想の展開と仏教」, in 『市川白弦著作集』 (Ichikawa Hakugen chosakushū [Collected Writings of Ichikawa Hakugen]), vol. 2, 『禅と現代思想』 (Zen to gendai shisō [Zen and Contemporary Thought]) (Kyoto: Hōzōkan, 1993), pp. 259–272. Page markers refer to this printed edition.
The essay was included in 『現代佛教問題五講』 (Gendai Bukkyō mondai gokō [Five Lectures on Contemporary Buddhist Problems]), edited by Nakajima Bunkyō 中島文鏡 (Tokyo: Young East Sha, 1949). Its pagination in that publication and any earlier publication history have not yet been verified.
The present text is a working scholarly transcription checked against scans of the 1993 edition. A small number of readings, punctuation marks, and embedded quotations remain subject to final verification. Handwritten marginal annotations in the scanned copy have not been incorporated. Transcription and editorial review by James Mark Shields (2026).
How to Cite this Text
Ichikawa Hakugen (1949). “Kyōsanshugi shisō no tenkai to Bukkyō” 共産主義思想の展開と仏教 [Buddhism and the Development of Communist Thought]. Transcribed and edited by James Mark Shields. The Radical Buddhism Project. Version of 8 October 2026. https://radicalbuddhism.net/wiki/IH49KST.
