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Seno'o Girō (妹尾義郎) (1928). 〈共産党事件に直面して仁王護国経の一節を読む〉 “Confronting the Communist Party Incident: Reading a Passage from the Sutra for Humane Kings Protecting the Nation. 《若人》 9.6. Reprinted in 稲垣真美編《妹尾義郎宗教論集》 (東京:大蔵出版, 1975), 242–254.


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共産党事件に直面して仁王護国経の一節を読む

仁王経嘱累品第八

大王よ、破国の因縁は皆汝自ら作る。 己が威力を恃み、四部の衆を制して修福を聴かず、諸の悪比丘あって別請の法を受け、知識の比丘共に一心となり、互に相親善し、斎会して福を求む、是れ外道の法にして都べて我が教に非ず。 百姓疾疫し無量の苦難あり、当に知るべし、爾の時に国土破滅せん。 大王よ、法末世の時、国王、大臣、四部の弟子各々非法を作し、横ざまに佛教に与し諸の過咎を作る。法に非ず律に非ざるなり。

大王よ、我が滅度の後、四部の弟子、一切の国王、王子、百官、乃ち是れ三宝の護持に任ずる者、而かも自ら破壊す、師子身中の虫自ら師子の肉を食ふが如し、外道に非ずや。

我が法を壊る者は大過咎を得ん、正法衰薄して民に正行無し、諸悪漸く増して其の寿日に減じ、復孝子なし、六親不和にして天龍祐けず、悪鬼悪龍日に来って侵害し災怪相継ぎ禍を為すこと縦横なり、当に地獄、畜生、餓鬼に堕つべし、若し人と為ることを得るも貧窮下賤にして諸根具せず、影の形に随ふが如く響の声に応ずるが如く、人の夜書するに火滅して字存するが如し、法を毀る果報も亦復是の如し。悪比丘名利を求むるが為に我が法に非ず、国王の前に於て自ら過患を説き破法の縁を作る、其の王別へずして此の語を信愛し、横ざまに制法を立てて佛戒に依らず当に知るべし、爾の時に法滅せんこと久しからず。

大王よ、未来世の中に、国王、大臣、四部の弟子、自ら破法破国の因縁を作り、身自ら之を受く、佛法の咎に非ざるなり。

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共産党事件を目にして、言下に、金甌無欠の国体を破壊せんとする反逆だ、不逞の陰謀だと亢憤してただ、排撃弾圧するのみにとどまって、何が故に金甌無欠の国家にかかる一大不祥事が発生するに至ったかを省みず、言ふところの金甌無欠なる本質と、それに遠ざかれること甚しき国民生活の実情とを深思せず、従って、切開し根治すべき主要なる患部に気付かざる、おろかな国民にとっては、佛陀のこの金戒も、或は馬の耳に念佛であるかもしらぬが、それにしても、わが仁王経は現代の国家にとって、たしかに頂門の一針に値することだけは間違ひないと信ずるから、敢て特書して、識者の三省九思に資して見たいと思ふ。

仁王護国経嘱累品

『「仁王」とは恩を施し徳を布くが故に「仁」と名づけ、純化自在なるが故に王と名づく、「護国」とは仁王法に由り道に率ふて国界を守護するが故に、人民適楽し国土安穏なるをいふ』

と解釈され、「嘱累」とは、かかる道理に従って、自らも政治し他の国王にも政治すべく伝道せよと命ぜられたものである。

大王よ、破国の因縁は皆汝自ら作る。

佛陀の断案は要を得て簡潔だ。破国の因縁を一言にして皆汝の責任なりと論告されるのだ。全く一句万了といふべきである。

考へれば、物の道理はまさしくさうであらねばならぬと思ふ。その何国たるを問はず、いやしくも一国の問題は、すべて之を統治し支配する主権者に責任が帰結されることはあたりまへのことで、かくあってこそ、名実ともに備はる国王の資格があるわけであらう。事実、万歳の声の集まるのもここであり、革命の烽火の指すのもここであることは世界の歴史が明らかに物語ってをる。従って、破国の因縁は之を人民に求むべきではない。況や国外に求むべきではない。「皆汝自ら作る」と戒告されたのは、何としても、正鵠を得たる論断だといはねばならぬ。

もし、この論断にして真なりとせば、わが破国の因縁は、断じて一部共産党でもなければ、彼等を司令してるといふ露西亜の第三インターナショナルでもなければ、またマルキシズムでもないわけであって、実にそれらの

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依って乗じうる、また依って発生しうる、欠陥を有する国情そのものに求めなければならぬ。従ってまた、国家を支配してその国情を自由に改革しうる主権者に之を求むべきことは決して不当の論理ではないと信じられる。

しかし、わが憲法によれば、その第三条に「天皇は神聖にして侵すべからず」とあり、第五十五条には「国務大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず」とあるからには、わが国に於ては、佛陀の戒告にあたるべき責任者は、当然国務大臣であるべきは言をまたぬ。

思ふに蚊の襲撃に困るものは、それが発生する泥溝ざらへや或は下水工事を完全にすることが根本的の施設で、また最も早く問題をかたづける一ばん賢明な遣り方であることは何人にもわかることだ。いつまで、卵を生みつける蚊がいけないのだと呶鳴って見ても、また毎度、蚊遣線香でくすべ殺して見ても、どぶや下水を改浚せぬかぎりは蚊は依然として続々と発生する分とも減るものではない。ところが、大阪でも東京でも下水工事がうまくできたところは、文字なしに、いつのまにか蚊の声や姿が消えてしまって住民は安気に睡眠がとれるやうになった如く、また、たまたま他所からやってきても、長く生存することは勿論不可能であるやうに、下水工事の必要さは、産卵する蚊の処置以上に必要にして、適当に施設すべき根本問題でなければならない。

しかし、下水工事の完成が根本問題だといったからって、下水工事が人間より大事だといふのではない。ただ下水工事は人間の意志によって改造しうる一ツの施設だから、従って、事理のわかった人間は、蚊に困る場合はこの下水工事を速かに設計し完成すべきで、それと同じく、もし社会の制度組織に問題の発生する欠陥があるとすれば、まづ其の欠陥の改善に進むべき事理のわかった人間の生活だといふのだ。

然らば、改造すべき欠陥が果してあるのか。あるとすれば、それは何か。

この問題は、今さら、こんな廻りくどく言はなくても、少しく社会的関心をもつ者にとっては、もはや常識であるはずで、から言ふさへすでに陳腐の嫌ひがあるほどだが、念のために、此度の共産党事件に関して、明言されたといふ小山検事総長の言葉を、ここに引用すれば

「高津正道、堺利彦と、それに今回とで共産党事件は三回目である。第一回は十六名、次が二十八名、今回

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は約五百名(予想)とその人員が漸次増加して行くことは何を物語るか。今回検挙された人々の中には非常に真面目な分子が多いのである。畢竟するに、かくの如き思想の弥漫してゆくといふことはそこに彼等の共鳴する何物かがあらねばならぬ。そこに社会組織上に何等かの欠陥があるのではあるまいか。治安法をいかに完備するとも欠陥を直さなければ根絶を期するわけには行かぬ。捕はれた者を責めるよりも其の方が肝腎であると思ふ。何れにしても、これは一種の困難であつて、この社会相は世の識者並びに為政者の考慮を要することである。」

とのことだ。参加党員の顔ぶれを見るに、その多くが純真な青年であり、また相当な知識の所有者であり、身心ともに健康な連中だといふことは、たしかに注目に値する事実でなければならぬ。かつては無造作に嘲笑されたいはゆる社会を呪ふ病弱者の病的なやけ仕事でもなく、また西洋カブレの悪戯とばかり言へないのだ。

純真な魂は、常に真理性に感激し、義人の血は、常に弱者に味方して湧くものだ。

さてこそ、あの厳しい圧迫があるにも拘らず、ますます共鳴者が増加する事実を考へるとき、たしかに総長がいふが如く「そこに何物かが」なくてはならぬので、この何物かを研究し改造せずして、またもし「何物か」の解釈について、彼等の認識に誤診があるならば、之に対して明確なる理解指導を与へずして、ただ之を危険視し反逆視するのみであるならば、別にまた総長の言ふがごとく「飯の上の蠅を追ふに等しい」愚かさである。それこそ、佛陀の戒められた「諸の悪比丘あつて別請の法を受け知識の比丘共に一心になり、互に相親善し斎会して福を求むる」の態度で、たしかに不徹底なる「国民思想涵養の題目をかかげて御用宗教家と共に、互に自己擁護に腐心する魂胆だ」と非難されても仕方がないことではあるまいか。総長の言を引くまでもなく改造すべき欠陥はありすぎるほどあるのだ。

百姓疾病して無量の苦難あり、当に知るべし、爾の時に国土破滅せん。

民衆貧困の原因について、マルキシズムが資本主義経済組織を指摘してゐることは言を要せぬ。さらにこの資本主義は必然に次第に階級的に貧富の懸隔を嵩ぜしめて、その懸隔がある程度に到達すると、恰も、汽罐に圧縮

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された蒸気が、ある一定限度に達すると突然爆音を立てて汽罐を破裂するやうに、現経済組織も圧搾された第四階級の手によって、遂に革命が行はれるにいたるものだと科学的に歴史的に立証してることも周知の事柄である。

翻って、わが佛教を顧みると、佛陀も亦、ここに国土破滅の時を、疾病窮乏に苦しむ民衆の生活難の時と明示されてをられるが、人間性を徹見してをられる佛陀の断案は正しいやうだ。たしかに、昔から飢饉に莚旗や竹槍はつきものであつたやうだ。ここに於て深く考慮すべきは、たとへ唯物史観に立って宗教を否認するマルキシズムと、人格史観(唯物史観と唯心史観とを止揚したるもの)に立てる佛教とが、もとよりそのままに相容れざるものであり、従って、窮乏の根本原因の認識について、その見解を異にするものであるとするも、而も民衆の生活苦の行き詰りをもって、国家社会興亡の支点動機と見るところに、不思議にも共通せる断案の与へられてあることである。

従って、民衆の生活苦を救済する具体的施設は、道義的欠点に立つも、科学的認識に従ふも、どっちにしても、最も留意すべき肝腎な問題だと言はねばならぬことだ。

然らば、民衆窮乏の原因は何か。

マルキストによれば、それが資本主義経済組織の故であることは前にも言った。マルキストは資本主義経済組織のもとにあっては

『生産枝術の進歩は万人を利するものではなく、資本家の利潤の増大を齎すのだ。労働大衆にはかへって失業と滅亡を与へるのだ。資本家は決して飢えたる労働者を養ふといふ人道的な立場から、労働者を養ふのではない。彼等は利潤を搾り取るために労働者を雇ふのだ。この利潤慾が、彼等をして工場を建てしめ、労働者を雇はしめ、そして不断に、より高率の利潤を得べき所――より高価に、商品を売り得る市場を嗅ぎ搜さしむるのだ。」といふのだ。而も「労働者には、労働力を売らねば生きられぬ不自由があり、資本家には馘首の自由があり、労働者を飢餓に曝しうる自由がある。この文明社会に再現した新しき奴隷制度!』

と、かなり彼等は喝破してゐるのだ。

然らば、佛教の道義的観点に立って、かくもマルキシ

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ズムに呪はれたる、資本主義の依って成立したるアダム・スミスの経済学原理を審理して見ればどうだらう。スミスの国富論に曰く

人間は不断に他人の援助を必要とする。然し、その援助は、他人の恩恵に依つて得られるものではない。他人の利己心に訴へ自分の欲するところのものが、彼等自身の利益なることを知らしめることに於てのみ、他人に依る自己の援助は期待し得られる。我等の飲食物は、肉屋、酒屋、パン屋の恩恵にまつのでなく、彼等が彼等自身の利益を重んずるが故に調へられる。我等は彼等の慈善心に訴へるのではない。唯彼等の自利心に訴へるのである。我等は彼等に対して、すこしも我等自身の必要をかたるにおよばない。彼等が彼等自身の利益のために何事もやってくれるから。――

と。かかる利己主義と自由放任主義の上に立てられた経済組織こそまさしく今の資本主義の本態であるが、しかしながら、かかる利己主義と自由放任とが佛教の根本精神に背戻することは今更いふまでもないことである。

佛陀は、法華経に「諸苦の本は貪欲なり」といひ「三悪道増長して阿修羅も亦盛んなり」といはれた。ひつきよう、この我利と自由競争のもたらす罪悪の戒告でなくて何であらう。「我」と「我所」即ち個人主義と、無制限なる私有財産とは佛道修行の禁物であって、共有報恩の思想と実行こそ、わが佛教の根本精神であるわけであって、かの社会主義者が「生産が資本家の利潤の為に行はれるのではなく、生産が万人の幸福のために行はれるとしたら、今こそ全く異つた社会相が現はれるであらう」といふ、その社会相こそ、また佛陀の社会生活に対していだかれる理想でもあるはずである。

この点、前記、仁王経には「悪比丘、名利を求むるが故に我が法に依らず」といひ、「正法衰薄して民に正行なし、諸悪漸く増して其の寿日に減じ」といはれて利己主義の流弊を道破されてあるが、直視すれば、資本主義文明は、巨人の歩みのごとく進歩した。富の生産は驚嘆すべきほど増大した。しかしながら、予期された、「最大多数の最大幸福」は夢であった。生産機関の独占と金融機関の独占とに相俟つて、さらに制裁なきシンヂケートやトラスト等の自由によって、一部少数の資本家はますます殷富に躍るに反して、最大多数の民衆は、その血みどろの労働生産に従事するにも拘らず恵まるるものは依

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然として薄く、相対的にますます貧困を来し不幸を増大して、あはれ一家こぞって永久に賃銀労働の鉄鎖に呻吟せねばならなくなったのだ。

まことに、共産主義者、社会主義者の関心こそこの一点にかかるものでなくて何であらう。過激はたむべきだ。しかしこの改造の叫びは何が故に不当であらうか。思へ、価格の関係によっては、寒さにふるへてゐる同胞はさらにある世に、折角生産された棉花が、ムザムザと焼却されることもあるのだ。一塊の黒砂糖にもありつけぬ飢えたる同胞がある世に、とけて流れる山のごとき砂糖が依然として資本家の倉庫にしまはれてあるのだ。さらに見よ、資本家や地主階級等が一年概算三十五億五千万円からの巨利を恵まれつつあるといふのに、労働者小作人等、社会大衆がいかに生活難に競々たることぞ。この汗につく血をもってするも、猶明日のパンに迫はるるわが同胞の現実を正視して、一片涙を有するもの、この限りに於てたれか、まづ資本主義――賃銀制度の鉄鎖を切断して、大衆当面の自由と福利とを与へんと奮起せざるものぞ。

もとよりだ、人はパンのみにして生くるものではない。われらは、飢寒の中にあって、「当世日本国に富める者日蓮第一なり」と仰せられたあの信念を無視するものではない。有限に処して無限を求むる人間の解脱は遂にパンの上にのみたされざることを忘れるものではない。しかしながら、またパンなくして生きえぬ現実を直視するとき、まづ恵まれざる同胞のために、パンの保証と、その公平なる分配とをはかることこそまた、如意の財源を同胞に分潤せしめることこそ、パンのみにして生くるものにあらざる神の精神を現実に意識し体験するものでなくて何であらう。思ひ遣りある人間至高の道義でなくて何であらう。日蓮聖人はいはれた。

白米は白米にあらずして命なり

と。パンこそ命だ。パンの問題の中にこそ、佛陀の慈悲の実現があるのだ。わけて現代のごとき生活苦の時において然りだ。日蓮聖人はまた言はれた。

佛眼をかって時機をかんがへよ、佛日を用ひて国土をてらせ

と。法とは妙だ、活用だ。一視同仁の慈愛が現実の中心問題解決の光として活用されてこそ、宗教も道義も永劫に人生の価値でありうるのだ。さもなくば畢竟、現実性

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麻痺の阿片剤と同類だ。

百姓疾疫し無量の苦難あり、当に知るべし、爾の時国土破滅せん。

かの「何物」こそあまりにも明瞭である。民衆は窮乏して苦悶のうめきはまさに輦載のもとにきこえてをるのだ。このうめきこそ人間性にひそむ「必要は法律を知らず」と言をたてて破裂する恐しい力となるのだ。

見よ、十六名、二十八名、五百名とくるこの幾何的飛躍的伝播性を。而も聞け、いかに多くの関心をもち共鳴を感ずる若き時代の子の声の大地ふかくひびけるかを。 まことに、世の識者、為政者の考慮を要すべき今、小山検事総長をまって知るごとき問題ではないのである。

民衆は必ずしも衆愚ではない。知る以前に味ふ存在である。だから実際なのだ。彼等の直観は比較的正確だ。だから、時の先覚は常に民衆に味方され民衆はまた先覚を支持してゆくのだ。民衆を雷同するものと考へるのは間違ひだ。彼等は、その平凡な日常生活の中に、いかに反って、人情の機微にふれ、物の筋目を直観し、行動しつつあるか。祖国を愛し仁侠に勇む純真性が、いかに今も、多分に彼等の五体に保存されてをるか。民衆は容易に宣伝の尻馬に乗って空虚な観念の世界に跳梁するものではない。常に生活の実際にふれて行動するものだ。従って、もし国家が仁王の精神によって公平に統治され、民家の生活が真に安泰であるとするならば、彼等は何を好んで命がけの運動なんかするものか。妻もいとしく子供も可愛いのだ。

だから、もし「民の富めるは朕の富めるなり」なる、わが皇道に則る具体的政治が現実にあるならば、いかにマルキシズムが宣伝されようとも、共産党がどのやうに跳梁しようとも、仁王の国家は永久に微動だもするものではない。なぜなれば、かかる仁王こそ民衆共通の精神であるからだ。民衆至福の源泉であるからだ。また、かかる仁王の哲理はよく一切を包容し融化して不断に統治向上の明鑑となすからだ。

横ざまに制法を立てて佛戒に依らず、当に知るべし、爾の時に法滅せんこと久しからず。

大王よ、未来世の中に、国王、大臣、四部の弟子自ら破法破国の因縁を作り、身自ら之を受く、佛法の咎に非ざるなり。

顧みれば、わが明治大帝が、

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罪あらばわれをとがめよ天つ神民はわが身のうみし子なれば

と、天神地祇にさんげましましたと拝聞して、感動恐懼その答ふるところを知らなかったのは、明治四十三年かの幸徳秋水事件の時であった。まこと拝すれば、かかる御内省こそ、わが主権のまことの主権におはします所以であり、義は君臣なれど情は父子なる関係を裏書きさるるものであり、従って欠陥ある制度組織改造の可能を示すものであり、従ってまた、革命に対して唯一の安全弁であり、而して、ここに万世一系、金甌無欠の国体として真の価値を認識しうることだと信じられるのだ。

しかしながら、かかる精神を体して、その補弼の重責に任ずべき国務大臣等は、現在、いかにわが政柄を執ってをるのだ。共産党事件に直面して仁王経を読まんとする徴表はここに動いたのだ。

彼等は、果して己が威力を恃まず、四部の衆を制せず、道理に従ひ正義を奉じて、よく国家大衆の福利を計りつつあると言ひうるか。

義憤より迸る「ノー」の叫びは、大洋の激浪にもまし物凄く寄せてくまいか。普選の記憶も、第五十五議会の記憶も、国民の脳裡にはまだホヤホヤだ、否、永久に義憤の種であるべきだ。

交渉、干渉、弾圧、検束、暴力団の横行、黙認、怪文書事件、停会再停会、議員買収等々、数へきたれば、およそ利用しうる威力のかぎりを乱用しつくして、醜悪の極をわが憲政史上にのこしたのは彼等ではなかった。而も、それらのすべてが、唯、我党内閣存続のためであるとはいはれるに至っては、沙汰のかぎりではないか。それは果して不当の批難だらうか。

道理がきかれず、言論が封鎖されるところに、直接行動は必然に誘発されるものと思はねばならぬ。わづかに一銭でも詐欺は詐欺だ、一円でも賄賂は賄賂だ。而も、下層の貧盗みなど、容赦もなくビシビシ厳罰されてをる世の中に、万金を以て議員の良心を買収し、広くは天下の選挙民を欺瞞し痛憤せしめる邪悪戻徳の行為をするというがごとき噂もつ身が而も、一面、「身を以て国難に殉ぜん」といひ「国民思想の涵養、精神の作興に努力貢献」なんどと、いかにも、まことしやかな教令を発するのだ。汝等の行動のどの部分を押へば、その教令を裏書きする権威があるといふのだ。その愚かさ加減は、女

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郎買ひをつづけながら、病みついた悪病を、誠心もって努力根治せんと力むの遊野郎と五十歩百歩の言ひ草ではあるまいか。

天皇は皇道――至公至誠、正義を表象する存在であらせられねばならぬのだ。全民衆の真正なる福利を保証される天皇であらせられねばならぬのだ。一党一派の党利党勢の消長に利用すべき存在ではあらせられぬはずなのだ。

而も補弼の重責にある国務大臣の行状、今やかくのごとく無道にして無反省である。何々法律案等「横ざまに制法を立てて佛戒によらず、破法破国の因縁を作り自ら之を受く」とはここのことではないか。かつては、日蓮聖人、かくのごとき時弊に際して時の執権北条時頼に向って、

世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず、是をもって魔来り鬼来り災起り難起る。言はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず

と断ぜられ、

汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ。

然らば三界は皆佛国なり佛国其れ衰へんや、十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや、国に衰微なく土に破壊なくんば、身はこれ安全にして心はこれ禅定ならん

と喝しられたのだ。然るに今や、一人の起って之を言ふる宗教家のあるなく、反って、その頤使に甘んじ、浮雲のごとき名利に唯々として、相率ゐて阿片のごとき説法に浮身をやつして、わづかに民衆鎮撫の対策にのみ腐心せんとするとは、そもそも何のざまだ。これまさしく「三宝護持に任ずる者、而も自ら破壊す。獅子身中の虫自ら獅子の肉を食ふが如し」そのままではないか。

考へれば国師の任にあたるべきもの、すでに、この為態だ。時宜の佛法を解して祖国の危難に殉ぜんと志す若人の覚悟果していづれにかひそめるぞ。

しかしながら、顧みればかかる時代の迷蒙罪悪に対して、何人かよく権威ある審判と懺からざる折伏とをなしうる資格を有するであらうぞ。各自の内にも亦、多少の資本主義的、既成政党的、罪根罪相を発見し得ないであらうか。万人がおよそ万人、局にあたっては一変に或は序々に終に醜き地金を露出して納りかへる底の代物ではないであらうか。野にあっての正義は果して朝に立って

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のそれでありえたか。肉が鈎にかかって手のとどかぬ間だけの爪牙を露出せぬ正直なる猫と同類ではなかったか。われらは、他を審判し折伏する前に先づ自らを審判し攻撃せねばうそである。

畢竟、社会の醜状は独り現資本家や為政者のみの罪ではないのだ。相互の唯物的利己的性向と生活との連帯的総合的産物に外ならぬのだ。どこに絶対に局外に立ちうる審判者が許されえようぞ。社会生活は連帯責任だ。

「大王よ、破国の因縁は皆汝自らを作る」の戒告は、ひっきょう、また各自への戒告なのだ。

ここに於てか、この醜状を改造する第一歩は、当然自己の内面生活にむけねばうそだ。他人を社会を当局を攻撃する前に、まづ佛陀の精神に遠ざかれる。忘却せる各自の唯物的、利己的現存生活を折伏してかかることを忘れてはならぬのだ。

だが、先づかうは反省すべきものであるものの、更に真の自覚は、この個的観念の生活の上に止まるべきものではあってはならぬ。真の懺悔、真の改造はまさに、この反省と生活の上に立って、再び有機的な全体的、社会的事象に向って展開して、而して有機的内省と、社会改造の実現とを期成してこそ、はじめて真の自己に徹底するものと思はねばならぬ。そこにこそ、真の連帯責任的自己懺悔と自己改造の具体的本質的生活が認識されるのではないか。なぜならば、社会は自己の社会なのだ、社会的欠陥への運動はまた自己の罪障消滅なのだ。かくして、当局為政者への批判折伏は、畢竟、一片の対立的憎悪や人気的やま師的運動ではなくして、実に、真理思慕と社会的関心からの必然として肯定し唱道しうるのでなくてはならぬと信ずる。

しかしながら、かかる批判攻撃ももとより、此処まで徹して考へざる対象にとっては、あきらかに自己への攻撃反逆と思惟されるのだ。反感、憎悪、排撃、圧迫は必然に起らざるをえないのだ。だが真の求道者にとってはかかる反運動こそ、まさに自己懺悔の実証でなくて何であらう。自己の罪業を、過去の無自覚なる生活を広く深く反省し認識すればするほど、この批難迫害こそ、当然の業報と観ぜられて、懺悔心はますます実証され、ここにはじめて命がけの求道生活は輝かしくあるのではないか。批難と圧迫とは不退転の努力精進に比例して起ってこよう。だが、それらは、真の求道者にとってはいよいよ反

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省の種であって恐怖の種ではない。法悦の道であって、苦悩の道ではないのだ。試めされるのだ。石は灰に金は真金に、落ちるものは落ちるのだ、進むものは進むばかりだ。聞け、わが日蓮聖人の叫びを、

日蓮は法華経の明鏡をもって自身に引き向へたるに都てくもりなし。過去の謗法の我身にあること疑ひなし。此の罪を今生に消さずば未来いかでか地獄の苦をば免るべき。過去遠々の重罪をばいかにしてか皆集めて今生に消滅して未来の大苦を免れんと勘へしに、当世時に当って謗法の人々国々に充満せり。其上国主既に第一の誹謗の人たり。此時、此の重罪を消さず何の時を期すべき。日蓮が小身を日本国に打ち覆ひてののしらば、無量無辺の邪法の四衆等、無量無辺の口を以て一時に誹るべし。爾の時に国主は謗法の僧等が方人として一時に誹るべし。爾の時に国主は謗法の僧等が方人として日蓮を怨み或は頸を刎ね、或は流罪死罪に行ふべし。度々かかる事出来せば無量劫の重罪一生の内に消えなんと謀てたる大術少しも違ふことなく、かかる身となれば所願も満足なるべし(同頁謗法滅罪鈔)

と。また聞け、

今、日蓮強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし。鉄は火に値はざれば黒し、火と合ひぬれば赤し。木をもって急流をかけば波山のごとし、睡れる獅子に手をつくれば大に吼ゆ

と。宗教は阿片ではない。レーニンの徒をして阿片の嘲笑をほしいままにせしめたるもの、蓋し、一片の観念内的懺悔反省にとどまって、進んで実社会生活の内容形式にまで立ち入っての批判と、その改造運動とを唱道し実行せしめざりしが為ではなかったか。

宗教は阿片ではない。聖日蓮の宗教は断じて阿片的ではないのだ。 宗教は我等にとっては生活だ。社会は自己の内容なのだ。自己は即ち社会なのだ。政治、経済、教育も軍事も、芸術等々、一切はまたわれらの宗教なのだ。佛陀の精神によって、批判され改造されるべき社会生活の内容なのだ。さればこそ、社会改造に志願し進出してこそ、真実の自己認識であり、自己懺悔であり、同時にまた報恩感謝の生活であり、畢竟、信仰生活の帰結であり完成なのだ。

まことに、かく観じてこそ、宗教に出発する改造運動と、いはゆる唯物史観に出発する社会主義、共産主義の

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改造運動とに本質的相違が認識されるのではあるまいか。

かくして、真理は現実に呼吸し、宗教は生活に一致する。「就中、生を此の土に得たり、豈我国を思はざらんや」だ。「白米は白米にあらずして命なり」だ。社会制度は社会制度にあらずして宗教なのだ。聖日蓮の事の一念三千の哲理は、天台の理の一念三千に取って代りうるのだ。即ち佛教精神の現実化なのだ。

まこと理論はどうでも立たう、理窟はどうでも言へ、ああ併しながら、人生に社会に同胞に祖国の現在と将来に深い関心をもった生きた青年よ。そも卿等の進路は奈辺に取らうとするのだ。

(昭和三年、『若人』第九巻第六号)